プロフィール
浅野誠
1972-73年沖縄大学に勤務
1973-90年琉球大学に勤務
1990-2003年中京大学に勤務
2004年より沖縄生活再開
玉城の絶景のなかで田舎暮らし
自然と人々とつながりつつ人生創造
執筆活動、講演・ワークショップを全国にて行う
沖縄大学・沖縄県立看護大学・沖縄リハビリテーション福祉学院で非常勤講師
沖縄大学客員教授

  最近著
  『沖縄おこし・人生おこしの教育』(アクアコーラル企画)
『<生き方>を創る教育』(大月書店)
『ワークショップガイド』(アクアコーラル企画)
『沖縄 田舎暮らし』(アクアコーラル企画)
  『浅野誠ワークショップシリーズ』
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2012年01月29日

2月5日結婚40周年記念日 何をしようかな

 40年前の1972年2月5日、東京神田で、私たちは結婚パーティ-をした。いわゆる会費制結婚式だ。1500円会費だったように記憶している。70名余りの方が参加して下さり、それですべてをまかなった。宮古から来た恵美子の母親が、初めてさわる雪に興奮していたのを覚えている。
 それから話が急展開し、4月10日に那覇港にダンボール50余箱とともに、当時としては大型船「なは」で到着し、沖縄生活が始まった。お金がすぐになくなり、上司に給料の前借りをした。
 そして、5月15日「復帰」。あわただしい日々だった。あのころの話をしても、聴き手の多くは、いつもの浅野の冗談だろう、というが、『事実は小説より奇なり』のころだった。

 結婚パーティーで三つの誓いをしたが、その一つは、オープンな家庭にして色々な人が交流できる場にしようというものだった。実際、40年間に我が家に出入りした人は、1000人を超すかもしれない。それらの方々との再会も、最近は多い。新しい出会いも多い。
 その40周年だが、二人で何をしようかと話したが、まだいい知恵が浮かばない。このブログ読者のアイデア提供に期待したい。
 当日、我が家に来たいという希望者がおられたら、事前メールをください。
 木曜金曜ぐらいまでには、何をするか決めたいと思う。
 


 写真は、我が家のある中山を背景に、イノーに立つ恵美子。恵美子は私の写真をとっている。
  
Posted by 浅野誠 at 16:28Comments(0)家族

2012年01月29日

移民先での社会運動とアイデンティティ追求 沖縄県史を読む22

 移民社会のなかで社会運動が展開されたという点で、ハワイ移民は注目される。

 「沖縄系移民社会に啓蒙運動が起こり、沖縄系移民の差別、低い社会的地位からの脱却という願望は多くの若者達に共有された。例えば学生による昭和学友会や、「球陽倶楽部」など沖縄人啓蒙を目的とした団体が組織された。(中略)
 またプランテーション社会の資本主義の矛盾に反応し、沖縄糸移民はデモ活動や労働争議に積極的に参加し、日本人労働者による大規模な労働争議の際に指導者に名を連ねた。さらに労働者のための新聞『洋園時報』を発行した。湧川清栄は多くの沖縄系移民が資本主義の矛盾に開眼し、労働争議に参加し、社会主義に傾倒していった理由を、他府県人による差別・偏見に対する反発が噴出した形と捉えた。また沖縄の苦渋の歴史に直面した當山久三の自由思想の発展であると述べた。」P390~1

 戦後にあっても、次のような指摘があることに注目しておきたい。

 「一見華々しいハワイの沖縄系移民の戦後史であるが、その背後に戦後、「赤」とレッテルを張られながらも米国の権力の暴走を批判し、対沖縄政策を批判した沖縄系移民がいたことを指摘しておくのは重要であろう。」P393

 沖縄移民は、移民先社会・アメリカ国家と日本・沖縄との間での対立矛盾の狭間にも立たされが、その難局を切り開き乗り切る営みが、たとえば次のように記述される。

 「日系二世たちは米国への忠誠を示す証しとして、積極的に入隊していった。沖縄県移民もまた同様である。戦時下に忠誠を示したからこそ戦後の日系人の社会的地位の上昇があった。同様に沖縄系移民も専門職や政界への進出、事業の盛況などがあり、それは数々の記録に残されている。特にレストラン業界は「沖縄系の独占事業」とまで言われ、戦後の沖縄系移民は「日系アメリカ人」として「成功」の道を歩み始めた。」p392

 こうした問題は、北米移民においても出てくる。アメリカ、日本、沖縄のからみのなかで、自らのアイデンティティをどうとらえるか、という問題が登場する。そのなかで、前回紹介した日本への同化教育を推進する沖縄県海外協会に対して異なる方向を提示したのは、在米沖縄県人会と名称変更する在米沖縄青年会であった。

 「彼らは沖縄県移民のアイデンティティの問題に対して新しい立場をとった。第一に、彼らは郷里沖縄から独立した組織としての立場をとった。第二に、海外協会の同化主義に反対し、エスニック・プライド、すなわち、「沖縄の誇り」を提唱し、積極的に沖縄の独自性を内外にアピールするようになり、沖縄文化は県人会内部で意識的に奨励された。会創立後まもなく、機関紙『会報』を創刊したが、一九三六年の第三号からは『琉球』と誌名を改めた。意味するところは「我々は琉球人であり、それを誇りに思う」。またピクニックでは沖縄のダンスや音楽、沖縄料理を積極的に楽しんだ。このように[沖縄」=「恥」とする海外協会の方針と対抗した。
 彼らは自分たちの存在意義として、移民した立場から、郷里沖縄とは異なった、現実としての移民社会の必要を明らかにした。ゆえに彼らは「海外協会支部は・・・現実の移民社会の立場を覆い隠してしまっている。そのことは移民コミュニティの福祉や利益を促進するには十分ではない」と主張する一方で、移民社会と故郷との分離を提唱し、県人会と故郷沖縄との関係について再定義したのだった。
 このように狭い日本人社会内のみでの承認を目的とした海外協会の同化主義に対抗し、在米沖縄県人会は自分たち沖縄系移民の文化的アイデンティティをアメリカ社会における資本主義、人種主義や差別に対抗する手段として積極的に主張すべきことを提唱した。すなわち、「沖縄」=「恥」をエスニックの誇りに変えていくことは、移民がアメリカ社会という文脈のなかでどう生き残っていくかという問題を突き付けることであった。」P399~ 400

 かくして、直接的には沖縄・日本・アメリカの三つを視野に入れ、それらのからみ合いの中で、自らのアイデンティティを鍛え上げていき、今でいえば、「世界のウチナーンチュ」を形づくる基盤となっていくのだろう。
 沖縄の外に出ることで、広い視野をもって沖縄を見つめ直し、沖縄発展の方途を探ることができる、ということはよく聞く言葉だが、移民がそうしたことの先鞭を切ったといえるかもしれない。



 写真は、本文に関係なく、イノーから見る中山(東部)景観

  
Posted by 浅野誠 at 07:07Comments(0)沖縄の歴史・民俗

2012年01月28日

身近に出会いそうな「看護の物語」ロールプレイ 看護大学授業

 

 27日は、受講生たちが探してきた現実の看護師の物語例から、特に関心を抱いたものを選んで作ったチームで作成した物語のプレゼンをした。
 受講生たちが作った物語は、毎年しているが、今年はすべてがロールプレイによる発表になった。このところ続けているロールプレイにはまったのかな。
 1枚目の写真は、患者への関わり方について先輩看護師から示唆を受けている場面。

2枚目は、別場所でしたロールプレイを、スライドを使用して発表したグループ。



 最後の各自のミニレポートには、こんな声が綴られていた。
・すべての事例がハッピーエンドだけど、実際には熱い気持ちだけでは上手くいかない時もあると思うのでクールになって事実を見ることも大切だと思う。
・「笑顔」 すべての物語のいい場面の最後は笑顔があった。看護は笑顔が生み出せる!!
・「楽しんだもん勝ち」 なんでもプラスに考える。後のことも考える。それがよりよい看護ケアになるかもしれないと感じた。
・受容って難しい。その人にとってどう言えばこの人が少しでも楽になるか考えようと思う。それが自分の意思と反対な意見でも
・専門的な事(看護ケア)とかだけでなくて人間関係など他の事についても考えなければならないと感じた。
・何かしらのつながりが必要。ささいなこと、ちっぽけなことだけど重要。その橋わたしを看護師がやろう。


 3枚目の写真は、コメントする私を写したもの。

  
Posted by 浅野誠 at 16:28Comments(0)授業・学生

2012年01月28日

 「皆婚社会」の崩壊 変わる結婚と家族 宮本本18

 「第6章 変わる結婚と家族」(宮本執筆)のなかでは、まず「皆婚社会」の崩壊の指摘が注目される。
 その前に、現在より以前の時代について、次のように書かれている。

 「工業化の時代は,結婚規範と結婚適齢期規範が強く,婚前性交,離婚,女性の再婚は社会的にタブーであり,社会規範が強力に人々の意識と行動を縛っていたということができる。」P116

 「生産的経済機能を失ったサラリーマン家庭は,子育てと団欒が主な目標となった。物質的に恵まれた豊かな家庭生活の実現と,子どもの教育への投資による社会階層の上昇が家庭の目標となったのである。
19世紀初頭から20世紀の50年代までに欧米社会に拡がった性役割分業(夫の役割は仕事,妻の役割は家庭)を前提とする「近代家族」あるいは「子ども中心社会」が,日本ではこの時期に一挙に定着することになった」P117

 これは、いわゆる教育家族(教育熱心家族といったほうが分かりやすい)が一般化したということだ。そしてそれに変化があらわれ、その構造が崩壊していくことについて、次のように指摘する。

 「工業化時代に特徴であった「皆婚社会」が崩れている」P113-4
 「単独世帯や子どもがいない世帯が増加して、結婚することや、子どもを持つことが自明ではなくなり、家族というライフスタイルをとらない選択も可能となっている」P114
 「高度経済成長期の結婚・家族は,その後大きく変貌を遂げる。晩婚化,非婚化への変化が始まり,皆婚社会は非婚社会の様相を帯びるようになった。
(中略)男性の有配偶率の推移(中略)  1950年から1970年へと有配偶宰は上昇して皆婚社会のピークに達した。その時期と比較すると,近年の若年期から中年期の有配偶率は著しく低い。」P117

 こうした動向は、すでに90年代からその様相が見えていたが、いまや誰の目にも見える現象となっている。そのころすでに広まった言い方を使えば、『いい人がいれば結婚するのだけど』であったが、今日では、そう「理屈づけずに」結婚していない人も多く、『結婚していない』ことを否定的なものと受け取るありようではなくなっている。むしろ「結婚という形を選択した人」という言い方が成立するほどだ。
 「少子化社会」を憂える施政者、また一昔前の道徳を強調する人は、結婚を「道徳的義務」扱いするが、当事者たちは、そうは受け取らない。また、今日の社会が要求する既婚者・家族の物的前提条件が整っている人は徐々に限定されてきている。整っていないで結婚すると『悲劇』を生み出す可能性が高くなっている。
こうしたことは、「家族の形」をどうするか、「家族という形」を選択するのかどうか、という問題にもつながるが、これは次回に引き継ごう。

 別の問題だが、次の記述に沖縄が含まれている点が気になる。

 「3世代世帯は、(中略)大都市圏および、鹿児島県、沖縄県、四国4県などでは数パーセントと低い。」P115

 いくつか理由が考えられるが、私の考えは書けるほどには熟していない。




 写真は、本文に関係なく、数日前から玄関をかざるバラ

  
Posted by 浅野誠 at 07:11Comments(0)生き方・人生

2012年01月27日

学生のコンピュータ事情と電子教科書の可能性

 先日、電子出版を扱う会社の担当者との会話で出てきた話。
 大学の教科書の電子出版化はどうだろうか。
 私も頭のなかでは考えていることではあるが、時期尚早だろうと思う。
 理由は、携帯パソコンないしはタブレット型のもの普及がまだまだだからだ。学生の95%以上が保有していないと、授業時に教科書を使用することができない。現在に筆記用具に代わって、それが主流になる事態が、ほとんどの学生にでてくる必要があるわけだ。
 私は、ここ1,2年でその条件が現実化し始めると予測している。したがって、いますぐに教科書に電子化は無理だとしても、その準備は必要だろう。

 この物的条件は整ったとしても、学生がそれらを使える状態が必要だ。その点でやや不安を覚える。若者はコンピュータの世界にはまっているようで、意外と『格差』が存在していそうだ。使えるものと使えないものとの格差だ。
 携帯電話の場合は、ほぼ全員が使用できる条件にあるようだが、コンピュータやインターネットには格差がある。私は、一時期メールレポートを課したことがあるが、大半が携帯電話で送信してきた。携帯機能の活用でコンピュータを代替しているかのようである。タブレット型の登場が、これにどう影響してくるのだろうか。

 話を広げて、学校での学習道具の変化を、時代を大きくとって見ると、
   筆・紙 → ペン鉛筆・ノート → 電子機器類
 現在、この後者の変化が進行中だということだろう。この過程は、人々の文字文化の媒体の変化と並行する。
 大半の人が共通に利用するもの変化ともなる。その媒体には、新聞・紙の本・テレビ・携帯・コンピュータなどがあるが、新聞や紙の本の比重が下がってきている。
 と同時に、共通するといいながら、『格差』『分離』が存在することに留意しないわけにはいかない。冗談っぽくいうと、大学授業にも、『紙・黒板』対応型と『電子・画像』対応型とを、予め表示して開講しないといけないかもしれない。もしかすると、『携帯』対応型が必要なのかもしれない。
 問題は学生の方だけでない。教員がどれに対応できるか、対応するかが、ということがある。その点では、学生と教員の「世代間格差・分離」の問題への対応が求められるかもしれない。




 写真は、本文に関係なく、屋上からの朝焼けと月
 数日前撮影

  

2012年01月27日

南城市域の米軍基地と自衛隊基地 南城市史6

 南城市を含めて南部地域は基地を縁遠いという印象を持つ人が結構いる。しかし、この地域には重要な米軍基地があったし、自衛隊基地は現存する。
 私自身もそれらの存在は知ってはいたが、正確なところは無知に近かった。
 そのあたりの叙述を紹介しよう。

 まず、親慶原にあった米軍基地について。

「秘密基地(CSG)知念キャンプの設置(中略)
朝鮮戦争の最中にCSG(混成サービス・グループ)=知念キャンプとよばれる部隊が設置された。当初から秘密部隊といわれ、基地の機能やその目的は全く不明で、従業員の採用も厳重な思想調査のうえ行っていたといわれている。CSGは知念半島最大の職場となり、地域経済を潤すドル箱でもあった。
 基地内の奥に隔離されたエリアがあり、そこでスパイ訓練や捕虜の尋問などが行われていたと噂されていた。朝鮮戦争やベトナム戦争では、秘密工作員らが使用する特殊用具が梱包されていたといわれている。復帰直前に米国のマスコミによってその実態が暴言され、CIA(米国中央情報局)の基地であることが明らかとなった。
 一九七二(昭和四七)年五月一四日、知念キャンプは閉鎖され、従業員六〇〇人も全員解雇された。その後、跡地には現在、琉球ゴルフ場が建設され、基地経済からの脱却がはかられている。」P282

 別の個所では、次のように記述されている。

 「旧玉城村に在った米軍基地「知念キャンプ(後にCSG=陸軍混成サービス群地区)」は、七二年五月一五日部隊が撤退。施設は「知念補給地区」として残ったが二年後の七四年一〇月一五日に全部返還された。
 CSGは米軍占領後の四九年十一月に駐屯、ベールに包まれた謎の基地だった。七一年六月、CIA(米中央情報局)の非通常戦争(秘密工作)基地であることが、ニューヨーク・タイムスの報道で明らかになり物議を醸した。」P307

 戦闘機墜落についての次の記述については、私は初めて知ったことだ。水源地接収など水問題にかかわる叙述もある。

 「一九五五(昭和三〇)年四月二八日、濃霧の日、旧玉城村の下親慶原に米軍空軍機B29の墜落事故が起こった。幸い人的被害はなかったが、家屋が破壊され、畑等にも多大な被害を受け二〇数件の賠償問題がおきた。近隣には住宅密集地があり、知念高等学校もあった。もし一歩あやまっていたら被害甚大な事故となっていた。
 水問題も住民を苦しめた。太平洋側に面する旧玉城村と旧知念村には湧水が多い。特に字志喜屋は多くの水源地を有し水量も豊富で、島尻有数の水田地帯として多くの米を生産していた。(中略)
 戦後、志喜屋の水源地が親慶原にある米軍施設に接収され、ポンプアップで使用されたため水量が激減した。その為、水力タービンの復活は元より、農業用水にも事欠く事態が派生した。一九六三(昭和三八)年、沖縄が未曾有の干魃に襲われた時、米軍は水源地に金網を張り巡らし、農業用水への給水を拒み、農道まで閉鎖した。
 農業用水の枯渇と道路閉鎖は地域住民の死活問題である。五月二十三日、区民は米軍への抗議行動を展開した。この騒動は与耶原署から二八人の警官が出動する事態にまで発展した。
 一九七一(昭和四六)年、志喜屋水源地一帯は米軍の枯れ葉剤PCPによる汚染もあった。米軍施設からの排水は農業用水だけでなく、貴重な生活用水や飲料水まで汚染した。」P287

 志喜屋の豊かな水源地の話は、志喜屋の人に聞いたことがあるが、ここに書かれていることは初めて知った。
 自衛隊基地については、存在を知っている人は多いだろうが、どんな機能をはたしているかなど、詳細を知っている人は少ないだろう。本書では次のように記述されている。
 
 「復帰後、旧知念村と佐敷町に陸上自衛隊と航空自衛隊が配備された。陸上自衛隊知念分屯地(第三二五高射中隊)と航空自衛隊知念分屯基地(第一八高射隊)で、米軍のミサイル基地を引き継いだ。
 米軍知念第一サイト(約十一万五,〇〇〇平方メートル)を七三年四月六日に一括引き継ぎ、同第二サイト(三一万二,〇〇〇平方メートル)は一九七三(昭和四八)年一月三十一日から七四年一月九日の間、三回で引き継がれた。陸自、空自がホークミサイル、パトリオットミサイルを装備し防空任務に当たっている。」P306

 平和学習で戦跡についての学習がすすんでいることと対照的に、近年まで存在した基地。現存する基地のことは意外に知られていない。そこで働いていた人など体験者は知っているだろうが、それ以外の人は余り、というかほとんど知っていない。戦争体験の記録がすすんでいるが、こうした基地体験の記録も進めるべきだろう。
 また、ホークミサイル、パトリオットミサイルはどんなもので、米軍時代の機能と現在の自衛隊での違いの有無など、知るべきことは多い。
 他に関連して言うなら、本島南東海域にある米空軍演習海域と嘉手納基地との間を往復する米軍戦闘機が、しばしば南城市上空を飛ぶ。とくに最新の戦闘機は、一万メートル(私の推理)もの上空でありながら、ものすごい爆音をもたらしている。
 こうしたことも調べ学んでいく必要があろう。

 これで南城市史の連載を終える。今後の市史編集作業の豊かな展開を期待している。



 写真は、本文に関係なく、屋上からの朝焼け 数日前撮影

  
Posted by 浅野誠 at 07:19Comments(0)南城・玉城

2012年01月26日

海風景 奥武島旧正の大漁旗 海岸に繁殖するツルナ

 

 25日午前、いつもの海岸散歩。
 満潮時刻。海が微妙に美しい。中山海岸から南向きを見たもの。

 東南東寄りに向きを変えると、逆光気味の光で、海岸の岩がいつもとは異なる美しさを見せる。



 対岸の奥武島漁港は、旧正月の大漁旗を掲げている。



 海岸の護岸のなかに、ツルナが繁殖。おいしそう。
取ってきて食する。美味しい。
 時々スーパーでも売っている。我が畑でも育てたことがあるが、粘土質なので上手くいかない。砂質のここが生育にはよさそうだ。




  
Posted by 浅野誠 at 16:28Comments(0)海・海岸

2012年01月26日

移民 差別と同化教育 「沖縄県史近代」を読む21

 移民先社会では、「日本人」との差別事態が見られ、その対処策として同化教育がすすめられた。
 南洋群島社会については、次のように書かれている。

「南洋群島社会には、「一等国民日本人、二等国民沖縄人/朝鮮人、三等国民島民」という暗黙の差別があったことも看過することはできない。貧しさゆえに充分な教育を受けられなかった親たちは、白分たちの苦労を繰り返させたくはない、と無理をしてでも子供たちに教育を受けさせた者が少なくない。」P352

 ハワイでも同じような状況があった。

 「(アルフレッド・トッツアの研究は――浅野補足)他府県人二世の間から「オキナワケンケン、ブタカウカウ」といったような蔑称が生まれ、二世間にも差異感は引き継がれていたことを示した。トッツアは両者の亀裂が生活細部に浸透していたことを指摘した。例えば互いの医者などの専門家、社交クラブ、商店の利用を拒み、それは宗教、すなわち信者となる教会・寺にまで及んでいた。
 こうして琉球処分以降形成された「ヤマト」と沖縄の関係は移民先ハワイにも持ち込まれ再現されたといえよう。ここで一つ述べておくと、実際には戦前の沖縄系移民社会は出身の市町村別に細分化された結束が中心で、それらは互いに排他的で独立性が強かった。ちなみに「オキナワ」全体の組織ができるのは戦後まで待たなくてはならない。」P389~390

 この後段の記述にも注目しておきたい。
同化教育については、次のように記述されている。

 「移民先の他府県人による沖縄県移民に対する差別や偏見に対し、沖縄では「大日本帝国臣民」となることを奨励し、移民先での差別の原因は移民側にあるとして渡航前に教育が行われ、一九二四年(大正十三)には「移民地における沖縄的なものを排除する」ことを目的に沖縄県海外協会が設立された。次々に移民先に支部が置かれ、一九二六年には布哇沖縄海外協会が設立された。このように、沖縄系移民の間でも差別への解決策として他府県人への同化が進んだ。」P390

 「海外協会の方針は沖縄的な生活習慣、伝統文化を捨て、「日本的なもの」を身につけることであった。(中略)
 米本土の沖縄系一世も他府県人による否定的な態度について語った。「私はしばしば沖縄人が、侮蔑的なトーンで『りゆうきゆう、りゆうきゆう』と呼ばれるのを闘いた」。
 こうした差別の原因を多くの沖縄系移民は沖縄文化の「後進性」と「野蛮な」生活態度に見出したのだった。海外協会の同化の観念は沖縄系移民社会のリーダーたちによって積極的に共有され、メンバーは日本人らしくふるまうことが奨励され、受け入れられた。例えば、夏のピクニックでも、沖縄の踊りや音楽ではなく、日本舞踊が披露された。メンバーの一世は海外協会の同化の方針を「沖縄」=「恥」と理解した。他方、指導者たちの「同化」思想の背景には社会的上昇志向と階級主義があった。ゆえに指導者たちは日本人らしく振舞い、他府県人との親交を深めた。指導者とメンバーの沖縄系移民の溝について次のような指摘がある。「彼等は少しばかりお高くふるまっていた。すべての沖縄系移民は下にみえるらしかった。だから彼らはヤマトウンチューとだけ仲良くした」。
 このように、海外協会で採られた同化の方針は琉球処分以後、ヤマトによる同化政策の延長線上にあった。その構造が、海外移民社会で再現されたのだった。ゆえに海外協会の方針は移民社会でも極めて当然と受け入れられた。この海外協会は当時の沖縄系移民社会を代表する組織であり、その協会方針をメンバーの沖縄県移民は共有していたわけだが、まもなく協会に対抗する存在が出現した。在米沖縄青年会であった。」P395-396

 同化教育・同化施策が沖縄内だけでなく、移民先でも行われたことは注目されるが、むしろ移民先経験が沖縄内での同化教育を、県人自身が追求する契機にもなったのだ。そうした中で、同化政策への批判対抗は注目すべきことだ。次回以降見ていくことにする。



 写真は、本文に関係なく、夕陽に照らされるイノーの岩

  
Posted by 浅野誠 at 07:10Comments(0)沖縄の歴史・民俗

2012年01月25日

「現代の若者の特徴」など多様な調査発表 問題発見演習

 今回は、3組4人から6つの発表があった。充実していて、討論が時間切れになるほどだった。
 タイトルをならべてみよう
1.野球とサッカーどっちが好きか?
2.「浅野邸での宴」企画書
3.「いろいろな人生調べ」の分析
4.沖縄大学CM作り企画書
5.米軍基地についてインタビュー調査
6.現代の若者の特徴

 6番目が「おおうけ」だった。
 現代の20才前後と、30年前の20才前後の人、各々5人以上にインタビュー
インタビュー項目は、
1)近所との付き合いはどうでしたか
2)大好物、よく食べた物は何ですか
3)ファッションとそれにかける費用を教えてください
4)趣味は何ですか
5)どんな遊びをしていますか
6)学歴を教えてください
7)仕事は何をしていますか
8)小遣いはいくらですか
 というものだ。

 この結果、調査者は次のようなまとめを書いた。
  インタビュー結果からわかったこと
    ・現代の若者は大学に進学する人が多いことが分かった。
    ・現代の若者は昔と遊びが違いゲームで遊ぶ人が多い。
    ・現代の若者ほど服にかける費用が高いことが分かった。
    ・現代の若い世代はあまり働く人がいなく、親からこずかいをもらっていることが分かった。
    ・豊見城と那覇で近所との付き合いに大きな違いがあることが分かった。
      →那覇市は移住してきた人が多いので近所との付き合いがあまり良くない。
      →田舎ほど近所付き合いがよい。
  感想
   もうやりたくない。嘘か本当なのかよくわからない。真剣に答えているのか、ふざけてるのかわからない(特に50代)。内容が恐ろしい。
   自分の予想に対して当たっているところと、予想クトなところがあり勉強になった。
   質問を考えるのがたいへんだった。
   質問のミスで関係のないことがわかった。

 こうしたインタビューは初体験なので、苦労が大きかったようだ。それにしても発見したことが多かったようで、さらに分析をふかめることを期待したい。この経験は卒論にも生かせそうだ。

 次回、どんな発表がでてくるか楽しみだ。

写真は、発表レポート一覧だ。

  
Posted by 浅野誠 at 16:19Comments(0)授業・学生

2012年01月25日

仕事おこし 社会的企業 労働者協同組合 宮本本17

 現代日本での職場は、企業による雇用システムが圧倒的部分を占めている。学校教育も最終的には、それらで働くことへとつなげられ、その意味で、企業による雇用システムに学校教育は従属しているといっても過言ではなかろう。ストレーターコースはそのような流れの典型というか、標準にされたものである。
 その結果、そうでないものは例外にされ、学校教育で扱う対象とならなくなっている。その動きは、1960年代に圧倒的なものになり、自営業につくものを育てるとか、起業者を育てるというのは、眼中に置かれなかった。
 幼児教育から起業家教育をするというフィンランドとは対照的でさえある。また、特定企業での雇用が終身続くというイメージではなく、数年ごとに職場を変えるのがごく普通というフィンランドの状況とは異なる。そして、1990年代ごろまでの日本での企業雇用は、「就職ではなく就社だ」といわれるように、学校での職業教育を「あて」にしない状況さえ広く存在した。

 ところが、事態は急激に変化してきている。企業に依存して職場を得ようというのでは成りたちゆかなくなり始めたのである。
 そうしたなかで、企業に過剰依存せず、「社会的に」職場を保障していく動き、個人ないしは共同で仕事を実現保障していく動きが広がり始めた。
 その動向を,宮本本は、たとえば次のように述べている。

 「地域に根ざし,地域のニーズを掘り起こしながら,社会的ミッションを持って,働く人たちの生活を支える仕事作りが展開している。その形態は多様で,雇用されて働くのではなく,起業したり,非営利法人(NPO)を立ち上げて仕事を起こしたり,共同出資による労働者協同組合,ワーカーズコーブなどである(谷本)。
 今後期待されるのは社会的企業である。社会的企業は,社会的課題の解決をミッションとする事業体の一種であるが,ボランティア団体や慈善団体と異なるのは,有料のサービス提供活動による社会的課題の解決を目指している点である。社会的企業が増えていくことで,従来何らかの理由で市場から排除されていた社会集団が,新たに市場に参加できる機会が増えていくことが期待される(中略)。」P107

 「失業率の高い社会になり,不安定雇用が拡大しているなかで,雇用されて働くという働き方だけに頼ることの限界が見えている。また,利益優先経済では放置される重要なニーズを満たすために,新しい仕事の創出はこれからの重要な課題である。」P107-8

 私のように「田舎」に住んでいても、しばしば出会うシルバー人材活用組織もその一つであろうが、宮本本は、そうしたなかの労働者協同組合に注目している。

 「労働者協同組合と類似の法人としては,企業組合やNPO法人がある。しかし,企業組合においては,出資だけして組合事業に従事しない組合員や,組合員ではないが雇用契約に基づき組合事業に従事する者が存在しているため,「協同で出資し経営し,働く」という働き方の実現には不十分である。一方,NPO法人には出資や分配の制度がなく,やはり「協同で出資し,経営し,働く」という働き方の実現には不十分である。このような理由で新たな法人制度が必要という立揚から,労働者協同組合法の制定に向けて全国で運動が続いている。」P108-9

 欧米ではこうした動きは広く見られるようだが、日本での追求に期待したい。



 写真は、本文の関係なく、イノーから見る夕陽

  
Posted by 浅野誠 at 07:11Comments(0)生き方・人生

2012年01月24日

25年間のコンピュータデータの一覧表を作成印刷する

 私がコンピュータを購入して付き合い始めたのは、1985年のことだ。16ベータというOSを使っていた。といっても、ワープロとデータベースのソフトを使うぐらいだった。ワープロ専用機とは1983年から付き合っている。90年代半ばまでは、コンピュータもワープロ機能中心の利用だった。しかし、インターネット環境が整った90年代後半からは、多様な機能に挑戦し始めた。1999年にカナダに滞在した際にも、コンピュータのお陰で、並行していた日本での仕事にも対応できた。

 私が付き合ったコンピュータは、現在が6機目だ。平均して4~5年間使用だ。
 ところで、私は長い間、「富士通オアシス―親指シフトキーボード」で作業してきた。しかし、オアシスは他のソフトとの互換性の問題があり、90年代末から少しずつワード使用へと移行し、つい数年前に移行を完了した。
 そこで、オアシス作成のデータを変換する必要が生じる。同じオアシスでもバージョンが異なると互換性に問題があり、互換性確保作業が必要だ。それはワードでもそうだ。つい先日、電子本作成作業の際、私はワード2007で作成したが、担当会社がその前のバージョンを使用していたので、変換作業が必要だった。変換の際、微妙なズレが発生することがあり、手直しが結構面倒だ。

 私のコンピュータデータは、ほとんどが文書であり、画像は最近のことだ。再利用することはないものも多いだろうが、必要となるものもありそうだ。そこで、データのバックアップも兼ねて、それらをUSBメモリにコピーする作業を始めた。上に述べた変換作業未完了のものの完了作業も並行させた。大半はコンピュータを買い替えるごとにやっているので、作業量としてはそれほどでもない。

 そして、その作業をもとにして作成した一覧表のプリントアウトもする。
 その際、悩み事がでてきた。エクスプローラーで、フォルダやファイルの一覧表を画面に出すが、それを「画面印刷」しようと、キーを押すが、さっぱり反応しない。滅多に見ないマニュアルなどを見たりして、試行錯誤をした。あきらめかけていたが、インターネットで「画面印刷」を検索すると、裏技がでてきた。ウィンドウズオフィスは「画面印刷」キーに対応しないが、「ペイント」と組み合わせてやればできる、というものだった。

 こんな試行錯誤の末、ようやく印刷できた一覧表は、全部で200ページを越えた。各ページにファイルが、平均して30ぐらいあるので、総計約6000の文書がある計算だ。一番古いのは、1988年データだから、約25年間の私の仕事の蓄積物ということになる。
 この作業でできたものを、どのように有効活用するかは、今後ゆっくり考えていくことにしよう。



写真は、ペイントを活用して作成した一覧表の写真。1988年に書いた原稿ファイルだ。
上半分がオアシス編集のもので、下半分が、それらをテキストへと変換した文書だ。

  

2012年01月24日

オモロ あきみよ ペリー艦隊 新原 ジュゴン 南城市史5

 オモロには、玉城の地名がいくつも登場する。(P104)
 そのオモロの一首に関わって、次のような記述がある。

 「南城市玉城の字中山の創始者は新原の海でジュゴンをとって生活していたという伝説がのこっている。このことは知念半島から奥武島にかけては三五〇〇年前から豊かな海の幸に恵まれていたといえよう。(中略)おもろさうし巻十三にも「アキミヨ」が謡われている。「あきみよの泊、聞ゑ親泊、肝晴りゑや、やちよこ はんたま掟 按司直り掟 うらはるの泊 やふさすの泊」とある。玉城の百名海岸のヤブサツの御嶽の下の浜から沖のリーフにのびている水路がアキ澪の泊で、そこは浦原・藪薩の泊と称していたようだ。その親なる泊にハンタマ掟という役人や、やちょこと称する女頭たちが居ならんでいる情景をうたっている。」p60-61

 我が家近辺のかなり遠い時代の様子が分かる記述だ。あきみよの水路は、タマグスクや藪薩の御嶽からはっきりと見える。

 ペリー艦隊の一部が、この近くにきて、地元農民から芋の「押し買い」をした話は、玉城村史で読んで知った。その詳しい事情が本書に、以下のように以下のように記述されている。

 「ペリーは、日本の開国に失敗した場合は琉球を占領する計画であった。そのこともあって、ペリー艦隊の一行は沖縄島の沿岸地帯や内陸部を詳細に調査していた。本島南部の東海岸一帯では、蒸気船の停泊地調査のため玉城間切の百名新原を拠点に久高島や知念あたりの入り江の水深などを調査した。
 彼らは新原の浜のウフガマーでキャンプを張っていたが、地元住民としばしばトラブルをおこしていた。
 米人らは、食料を確保するため釣り船から魚を無理やり奪ったり、斧で脅してブタを買い取ったりしていたのである。さらに、浜辺においてあったサバニを壊し薪にするなど、傍若無人な行動で地元民を困らせていた。タト国人との交流は勿論、物品の売買を禁じられていたので、どうしても米大による強引な取引(押し買い)になったのである。王府の役人は、彼らの行動を監視はしていたものの、それに介入することはなく報告書にまとめて評定所へ提出するだけであった。
 さすがの王府も、王城での米人の問題行動を看過するわけにはいかず、通訳をつけて意思の疎通をはかるよう方針を転換した。その後は、米人の調査隊が立ち寄る地域では、通事を立ち合わせて地元民と交流させたのでトラブルはおこらなくなった。玉城での教訓がいかされたのである。」 P169

 こういう話は、地元の年配の人でも意外に御存じない。もっと語り継がれてもよいと思う。



 字玉城。高いところがタマグスク
玉城村史によると、字玉城の稲福さんに押し買いをしたという話だ。

  
Posted by 浅野誠 at 07:20Comments(0)沖縄の歴史・民俗

2012年01月23日

夕陽 人影 新築ホテル


 

 先週、久しぶりに暖かくいい天気の時に撮影した写真。
 いつもの玉城・中山のイノーから撮影。奥武島の向こうに夕陽が沈む。



 夕陽が、私の影を長くして、イノーの岩に映す。
 岸辺には浜辺の茶屋が見える



 サチバルの新築ホテルが、夕陽に映える。
 
  

2012年01月23日

移民 土地整理 徴兵忌避など 「沖縄県史近代」を読む20

 今回は、石川友紀さんが「出移民の要因」の3,4番目としてあげた「共同体規制の崩壊」「社会組織」に関係が深い「土地整理」、5番目に挙げた「徴兵忌避」にかかわる記述をみていこう。
 まず徴兵忌避である。

 「徴兵検査前になると、親が移民として長男を送り出した。長男は家を継承する者であり、家の存続を考えて送ったことになる。徴兵忌避者での移民がどのくらいの数にのぼったのか、数量的把握は難しいが、西原文雄によれば、官のためにただ奉公するよりは、海外に出て自分のために苦労した方がよい、と言って移民したと語っている移民帰りの人々もいるということである。」P345

 次に「土地整理」に関わってである。

「移民研究者の石川友紀は、土地整理事業と移民、人々の移動について次のように述べている。
    村人を規制していた地割制度が廃止され、新しい土地制度が確立されるとともに、
    個人に出る意志さえあれば、自由に出られる条件が社会的には作りだされた。
    (略)土地整理事業以後は、納税の義務としての金納制も実施され、貨幣経済が
    村々に浸透し、それまで自給自足の生活に甘んじていた沖縄の農村社会が、近代化
    へと大きく発展していった。その後現金収入を必要とする社会になるにつれ、
    村から多くの出稼ぎがおこなわれるようになった。
    (略)土地を抵当にして親戚や村の金持層、或は高利貸や銀行などから金を
    かりることもできた。
 南米などの遠い国々に移民する者にとって旅費は大きな負担であった。行きたくても旅費の準備が出来ないと諦めざるを得なかった。移民と旅費の関係を、移民を送り出していた地域の人々は次のように今でも話している。
  「金のある人は南米に行けたが、少しの金しかない人たちはフィリビンに渡航した。金のない人たちは内地に出稼ぎした」。
  移民と出稼ぎ、移民先に対する認識の相違がうかがわれる話である。」P346

 以上、「出移民の要因」の叙述についてみてきた。
 これらには、当然ことながら、移民した人々と移民先での状況だけでなく、送り出した側の地域・人間関係の事情が深く関わっている。その構図は、現代において、出身地から出ていく若者たちの事情とも共通することが見られる。
 こうした社会移動が、当人たちだけでなく送りだした地域のありようにどのようなものをもたらすのか。それは私がいう「沖縄おこし」とからむことである。『出稼ぎ型』ではなく、移動先も沖縄自身も、そして当事者自身も、その後をどのように展開していくのか。世界的なつながりを育むだけでなく、出身地域と『残された人々』をも充実するありようを模索する課題が現代も継続する。



 写真は、本文の関係なく、奥武島南岸から見た西方向。海を隔てて摩文仁・具志頭が見える。
 ちなみに、今日1月23日は旧正。奥武島は、今も旧正中心だ。

  
Posted by 浅野誠 at 07:24Comments(0)沖縄の歴史・民俗

2012年01月22日

 生まれてはじめてジーパンを買う サチバルマヤー半額セール



 雨の中、傘をさして、いつもの海岸散歩の帰り道、サチバルマヤーで、セールをしているので立ち寄る。ここは若い人たちでいっぱいだ。もうすぐお産という方が3人もおられた。旧正前日で「おめでたい」話だ。

 半額セールを29日までしている(水木は休み)とのこと。そこで、二人で買い物。
 私は生まれて初めてジーパンを買う。試してみようかと思う。
「生まれて初めて」というと、その場にいた梅原龍さんに「エッ、そうですか」と驚かれる。

 ここのものは、Big Hug というブランドで出している。デザイナーとは時々会うことがある。


 
  
Posted by 浅野誠 at 16:52Comments(0)衣食住

2012年01月22日

教員の研修制度休職制度の活用 宮本本16(余談)

 ワーク・ライフ・バランスは、政治経済の問題だけでなく、人々の生き方・働き方の問題でもあると、前回書いた。日本では、制度上未熟な段階にあり、なかなか難しいところがある。しかし、すでに制度的に可能であるのに、制度をうまく活用していない、ないしは活用しづらいことがあるのではないか。
 したがって、制度的な改革と並行して、既存の制度をうまく活用するありようの追求が求められよう。

 教職員に例を取って考えると、研究研修制度の活用、休職制度の活用がある。

 まず大学教員の場合。大学教員は、研究のために国内外に出かける制度があるが、順番がなかなか回ってこない。そこで、自費研修という制度を使う人がいる。自費なので、研究旅費や研究費は出ないが、給与は支給される。その期間の講義などをどうするかには、同僚の協力が必要だが、そういう形を多くの人が取れば、他の人も行きやすくなる。海外の大学では、5年に一回はサバティカルがとれるのがごく普通だ。フィンランドでは、一般の雇用者全体にそういう制度がある。日本の場合は、大学でさえ難しい事情にある。
 自費研修は、財政的に難しいという場合に、滞在国政府の資金を得る人もいる。
 また、大胆に休職して、全くの自費で賄う人もいる。

 私の場合を書こう。30年ほど前に在職した琉球大学では、国費による海外研修はなかなか順番が回ってこない。年齢制限の50歳直前にようやく行けるのがごく普通だった。当時の地方国立大学の場合、それが普通だった。しかし、国内研修はそうでもなかった。勤続10年ぐらいで30代後半になった私は、それを活用した。
 その後勤務した中京大学の場合は、比較的取りやすかった。中には、数年の間隔をおいて2回目という人もいた。私は、10年近く勤務して50代前半でカナダに一年間いった。

 そのカナダで、現職の中学高校教員で、日本からきてトロント大学の大学院に在学している人に何人かであった。私立学校が多いが、公立学校の人もいた。費用もでて派遣という形ではなく、休職という形が多かった。当時は、公立学校教員が休職で海外大学院に入学できる制度を持っている自治体は少なかったが、その後増えて、全国的に広まった。3~4年前、琉球大学の修士課程に在籍する他府県からの現職教員に複数出会った。ようやく、この制度を活用する人が広がったのだな、と思った。

 ところで、近年の日本の教員は、夏休みも実質的な出勤が義務づけられる事態になった。かつては「融通」がきいたが、いまではそうではなさそうだ。カナダやフィンランドなどでは、夏休みは2ケ月以上、本当に休みなのとは対照的だ。教職員に限らない。むしろ一般的でさえある。フィンランドなどでは、セカンドハウスを持つのがごく普通で、そこで暮らすのだ。郊外の湖沼のまわりなどには、そういう家がいっぱいなのだ。 
 働き過ぎで休み下手なため肉体的精神的に疲労が蓄積する事態を変えることに、多くの人が挑戦してほしいものだ。



写真は、本文に関係なく、奥武島南岸から東方向を見た写真 龍宮・サチバル・新原が見える

  
Posted by 浅野誠 at 07:21Comments(0)生き方・人生

2012年01月21日

保健室物語をロールプレイで創る 看護大学教職原論授業

 20日は、年末年始・センターテストを挟んだため、一カ月以上ぶりの授業。
 「保健室で、体調不良の子ども、「保健室登校」の子ども、突然入ってくるクラスメートの子どもたちをめぐる動きのなかで、養護教諭がどう対応したかを」、即興のロールプレイを通して考える。
 いろいろな物語が創りだされた。
  子ども相互の不信を組み替える。
  未熟な担任教師に管理的姿勢を改めるきっかけを与える。
  管理職の協力的対応を生み出す。
  クラスメートとの人間関係が芽生え始め、教室に行こうかなという気持ちになる子ども。
  母親との協力関係を探る・・・

 これまで養護教諭が視野になかった受講生で、レポートのなかに今後考えていきたいと書いた人があらわれた。

 授業のテーマは、事態変化、子ども変化に対応して指導を創造工夫する、というものだ。
 受講生は、即興にもかかわらず、興味深い演技を創造していた。
 即興によるロールプレイには、一人ひとりのキャラがあらわれて面白い。普段は静かだが強力なパワーを出す人、いつも通りにこやかな人。

 次回は、受講生が集めてきた多様な看護の物語をもとにできた6つのグループによる看護物語の発表だ。
 授業も後半に入り、熟し始めている。



写真は、本文に関係なくユウナの花。中山から奥武にむけての海岸遊歩道沿いに、ひっそりと咲く。季節によっては大量に咲くことがあるが、今はただ一輪。 

  
Posted by 浅野誠 at 17:19Comments(0)授業・学生

2012年01月21日

漁撈と交易 二千年~千数百年前ころ 南城市史4

 二千年~千数百年前ころの南城について、次のような記述がある。

 「山里真謝原貝塚の例でもわかるようにサンゴ礁の海を前に広大な貝塚を形成していること、また、この時代の多くの遺跡から貝製品が豊富に発見されることから、この時代はサンゴ礁の海を生業の場としつつ、長い先史時代の過程でも最も漁労活動が活発化した時代だったのではないかとみられている。
 さらに九州との交流を示す資料も多くなる。当時日本は弥生時代にあたり、沖縄各地の遺跡からも弥生時代の土器が発見されていて現在では三四ヵ所の遺跡からの報告がある。(中略)
 斎場御嶽整備事業を進めて行く中で三庫理地区の発掘調査が実施されることになり、調査の結果、斎場御嶽には、弥生時代に相当する時代と琉球王国時代の二つの遺跡が重なり合っていることがわかった。弥生時代に相当するのは、三庫理地区の下層からであり、地元でつくられた底が尖り底の土器とともに九州弥生中期の土器が発見された。弥生相当期の土には琉球王国時代のものが覆い被さり、上を壊して発掘を進めることができず詳細な調査はできなかったもののイノシシの骨が意図的に焼かれていることがつきとめられた。こうした骨焼きの行為は、「動物の送り」と「火による浄化」といった動物に関わる祭祀との関連があるとされ、当時の精神文化を示すものとして注目されている。」P49

 私が住む玉城字中山も、こうした場だったろう。漁撈と交易がキーワードになりそうだ。イノーでの漁撈、森でのいのししなどの狩猟、加えて、イノーの切れ目をとおっての交易が推察できる。船がヤハラヅカサ近くまで行きつける水路は、丘の上から見るとよく分かる。

 この時代の後半については、次の記述が注目される。

 「いずれにしろ、この時期には、外部からの来航者たちが交易のため沖縄の地を訪れていたことは確かであろう。こうした来航者たちの活動はしだいに増え、終末期にもなると恒常化し、やがて沖縄社会に大きな変革の時代をもたらしていくのである。(中略)
(沖縄県下の)約一割の遺跡が南城市に存在していることになり、南城市の先史時代の遺跡では数が最も多くなる時期である,遺跡が多いということは人間の活動が活発だったことを意味している。」P50

 ヤハラヅカサあたりへのアマミキヨ到着を暗示するのかもしれない。木村政昭さんの邪馬台国沖縄説も、こうしたことと関連があろう。とはいっても、「説」の段階であり、「定説」とはいいえないだろう。むしろ疑問の方が多いかもしれない。
 それらとかかわって、一つ気になる記述がある。焼畑の存在を指摘する次のものである。この指摘はあまり目にしない。定説になっているのだろうか。指摘が正しければ興味深いことだ。

 「太古、紀元○年(約二〇〇〇年前)ごろ、北方からアマミキヨ族が大挙沖縄に渡来し、山地斜面や海岸段丘を利用する焼畑農法を営んだ。焼畑を「きなわ」といい、その跡地に出来た集落は「きなわ」が転訛して喜名、知名、屋慶名(焼庭)、知念などと呼ばれるようになり、知念という地名もそこから生まれたとみられる。」P352

 

 イノー 1月18日撮影 アーサ類が緑がかってきている。


  
Posted by 浅野誠 at 07:26Comments(0)沖縄の歴史・民俗

2012年01月20日

南城市の卓球愛好家が集う「南城クラブ」へ

 「さしきスポレクセンター」での卓球練習は、若い「喜納クラブ」のメンバーたちが中心になって、長い間営まれてきた。そして、「喜納クラブ」以外の南城市内外の人も練習に参加していた。
 数年前、玉城体育館で練習してきた玉友クラブも、体育館改修工事でやむを得ず合流した。私もその一人だった。練習環境などもあって、改修工事終了後も、「さしきスポレクセンター」での卓球練習をそのまま継続してきた。加えて、秋の県民体育大会向けの代表選手練習も「さしきスポレクセンター」で行われてきた。
 つい先日の県民体育大会では、これらのメンバーが協力して、準備活動に取り組んだ。

 こうした経過を経て、皆が合流して「南城クラブ」にしようという提案が出てきて、今、その方向に進みつつある。
 老若男女、上手下手、南城市内に住む人、職場がある人、南城に縁がある人など、多彩なメンバーが集まるクラブとして発展して行きそうである。私も、その一員ということだ。
 練習は、毎週水曜日木曜日の夜8~10時だ。



 写真は、11月の県民体育大会の卓球懇親会での、南城メンバーによる余興

  
Posted by 浅野誠 at 17:26Comments(0)スポーツ・卓球

2012年01月20日

移民 海外雄飛 「沖縄県史各論編第五巻近代」を読む19


 連載の前々回に、石川友紀さんが「出移民の要因」の2番目として「移民啓蒙家など先駆者の出現」をあげていることを紹介した。それに関わる記述として、以下のものがある。
 
 「當山久三は東京滞在中に移民に関心を寄せるようになったというが、それ以前の明治二七、八年頃から、弟たちに外国の話をしており、移民についての情報を得ていたようだ。東京滞在中に移民に関心を寄せるようになったのは、既に外国についての情報を得ていたためであったと思う。また、特の衆議院議員田中正造からハワイ移民が有望であるという話を聞き、刺激を受けたという。」 P334 

 また、「いざゆかん、我らの家は五大州、誠一つの金武世界石」という詩について、
 「當山がハワイヘ旅立つ時に故郷金武村で「沖縄人」の発展を図ろうという思いを詠んだ詩である。ここに移民が単なる出稼ぎの手段だった日本本土出身者とは異なる「沖縄系移民」の特徴がある。湧川清栄はその特徴を捉え「思想移民」、「『赤』の烙印を押された人々の民族愛の所産」と表現した。そこには差別からの脱却、「ヤマト」と同等の社会的地位の獲得、という思いがあった。沖縄民権運動の活動家であった當山は、自由が失われた沖縄にとどまるより、海外に雄飛して自由の新天地を建設することが大切であると、海外移民に関心を向けていった。」P386と記述されている。

 こうした心意気は、現在の「世界のウチナーンチュ大会」にもあらわれている。また、それを私がいう「沖縄おこし」とかかわらせていうと、「沖縄脱出」「沖縄を見捨てる」というのではなく、「沖縄おこし」の流れの中でのものとして「海外雄飛」が登場しているのだ。
 當山より少し時代がくだって盛んになる南洋群島での活躍をめぐって、次のような記述もある。

 「移往した日本人人口が現地住民人口を凌駕する点て、樺太と並ぶ例外的な地域で、日本人の約六割、島によっては八割が本籍を沖縄県にもつ人たちであったことは南洋群島だけの特徴であった。人口面でマジョリティであったウチナーンチュは植民地社会を構成し、支える原動力であり、様々な分野の仕事で経験を積み、一つの島内を、あるいは南洋群島の島々を、さらには外南洋まで仕事を求めて移動した。」 P350-1

 こう紹介してきたが、移民をすべて『海外雄飛』でくくることはできない。そうした色彩をもつ移民が存在したというべきであろう。「沖縄おこし」とつながるわけではものも多分に存在したのである。
 今後、過去の移民、そしてその現代的系譜を検討する中で、「沖縄おこし」的性格をどう評価していくのか、一つの研究課題であろう。


 
 写真は、本文に関係なく、ユーフォルビア・ダイアモンドフロストの花

  
Posted by 浅野誠 at 07:22Comments(0)沖縄の歴史・民俗

2012年01月19日

電子出版「写真集 沖縄田舎暮らし 自然につつまれて」発刊へ


 
 昨年10月に、沖縄県の産業祭りで出会った㈱Nanseiとの話がとんとん拍子に進み、同社発売により、まもなく発刊となった。

 内容説明文を、次のように書いた。
沖縄本島南端の南城市玉城に住む著者が、日々の暮らしの中で撮影した写真集。
朝日、景観、花、木、雲、動物、日食、海岸・海、海の生き物、夕日、月・星・・・
自然につつまれ、自然の呼吸を感じる。自然が人々を癒し、人々にパワーをもたらす。
自然と闘うのではなく、自然とともに生きる。
ブログ「田舎暮らし・人生創造・浅野誠」から生まれる。

 このブログで消去した記事をもとに、年末年始の編集作業を進めたものだ。
 購入方法については、近く掲載するつもりだ。 



  

2012年01月19日

自然 遺跡 三千数百年前 南城市史3

 記述の中で注目した点を、いくつか紹介コメントしていこう。

 1)「第1章 南城市の自然」では、生活感覚の中では気付いてはいるものの、改めてはっきり教えてくれることが多い。
 イワサキクサゼミ、イノーなどの地形、クチャや石灰岩などの地質、地滑り、やんばる山、ハマジンチョウ、
 などなど。

 我が家玄関脇のオリヅルランにとまっているイワサキクサゼミの写真は、このブログで紹介したことがある。
 イノーややんばる山は、すぐ近くだ。

 2)「第2章 歴史のはじまり」のなかでの、遺跡の分布変化についての次の記述は興味深い。玉城・知念と大里・佐敷との違いは、合併したことで気づかされるという面があろう。

 「遺跡の分布状況は、先史時代の遺跡が王城や知念に偏在し大里では僅かな分布状況を示し、佐敷にいたってば皆無である。ところがその後のグスク時代になると分布状況が変わってくる。すなわち大里や佐敷の地域でグスク時代の遺跡が増え、玉城や知念よりも多くなる。
 本県における先史時代の貝塚立地をみると、先史時代遺跡のほとんどは海岸に近い石灰岩丘陵上が、その周辺縁辺部の崖下および海岸砂丘に形成されている。遺跡がこうした場所に立地するのは、前面にサンゴ礁の広がる海がひかえていることと、近くに湧水があることが大いに関係している。(以下略)」P34~5

 三千数百年前ころの南城についての次の記述は、我が家からすぐ近くのイノーややんばる山の自然に支えられた人々の暮らしを想像できる。新原・百名の貝塚も近い。

 「この時代は、沖縄の貝塚人たちが大きく活動する時期であり、久高島など小さな島々にも人びとが拡散し貝塚を遺すようになる。貝塚の数は増え人口が増加していくことがわかる。発見される遺物も多種多様であり、まさに沖縄貝塚文化が華開いた感さえした。おそらく地域間の交流も活発に行われていたのであろう、(中略)
 当時の食生活についてみると遺跡の前面に広がるサンゴ礁の海から採れる貝類や魚類、あるいは海草類などが食膳を賑わしたであろうし、また、山の幸を得るためイノシシも狩猟の対象になった。百名第2貝塚や熱田原貝塚などからはイノシシの骨が発見されている。沖縄本島や周辺離島ではすでにいなくなったイノシシが貝塚人たちの食料資源になっていたことを物語る資料である。」P47

 貝塚人たちが現住者の直接の祖先かどうかは不明にしろ、この場に住んだ人々のイメージがわかる。



 写真は、我が家から見るイノー風景
  
Posted by 浅野誠 at 07:17Comments(0)沖縄の歴史・民俗

2012年01月18日

2月20-24日 問題発見演習Ⅰの集中講義 次年度授業も決まる

 沖縄大学で予定されている「問題発見演習Ⅰ」の集中講義日程が、2月20―24日に決まる。
登録希望の方は、沖縄大学教務課で手続きをして下さい。
楽しく、体を動かしながら、友達を増やしながら、学んで行きます。

2012年度の担当授業科目も決まりました。
沖縄大学 問題発見演習Ⅰ・・・・前期、後期、春季集中
      問題発見演習Ⅱ・・・・後期
沖縄県立看護大学 教育学・・・・前期
加えて、沖縄リハビリテーション福祉学院言語聴覚学科「実践教育学 対人援助とコミュニケーション」は、3月に確定する予定です。

授業は、私にとって楽しく実り多い時間ですが、受講生の皆さんにとっても、よりいっそうそんな時間にしたいですね。

 

 写真は、本文に関係なく、さしぐさ=あわゆきせんだんぐさ=しろのせんだんぐさ。どこでも元気よく育つ逞しさ。雑草としてきらわれるが、戦争直後、食用にされたと聞く。

  
Posted by 浅野誠 at 16:28Comments(0)授業・学生

2012年01月18日

新しい働き方 ワーク・ライフ・バランス 宮本本15

 宮本さんは、「新しい働き方の展望」のなかで、「ワーク・ライフ・バランス」について、以下のように述べる。

 「現代における働き方の指針として大きな位置付けを与えられているのがワーク・ライフ・バランス(Work-Life Balance, WLB)で「仕事と生活の調和」と訳される。ワーク・ライフ・バランスには多面的な意味がある。日本では少子化対策・男女共同参画の文脈で語られることが多かった。しかし,WLBは,労働時間政策,非正規労働者政策など働き方の全般的な改革に関わるテーマである。
 欧州委員会の外郭団体である欧州生活労働条件改善財団(ダブリン財団)が,2003年に刊行した『職業生涯にわたる新たな時問編成』と題する報告書では,ライフコースという視点から,これまでの「教育訓練→フルタイム就業→引退段階」(男性),「教育訓練→第1段階の稼得就業→家族世帯段階(並行してパートタイム就労も可能)→第2段階の稼得就業も可能→介護段階(並行してパートタイム就労も可能)→引退段階」(女性)という男女別・年齢別のライフコースから,各年齢を通じて教育と労働と余暇時問が並行して行われるようなモデルを展望し,これを支援促進するような新たな制度設計を考えるべきとしている。
 また,2005年,同財団刊行の『ライフコースにわたる労働時間選択:社会保障の構造を変える』では,ある時期に就業を中断したり労働時間を減少させることが本人にとってリスクとならないような社会保障制度のあり方を目指すべきだと提言している。また,人々を特定の雇用関係に依存する状態から切り離し,人生のそれぞれの時点で,自由に就業に関する意思決定ができる独立性を与えることも意図している。
 人々が,生涯において,従来のようなフルタイム労働に限定されず、パートタイム労働や有給休暇制度を取り入れることによって、仕事と生活のバランスのとれた生涯プランを樹立できる社会でなければならない。生涯にわたる労働時間配分という視点が重要である。」P105~6

 私が長く主張している「人生創造」と響き合う提起だ。また、ここに書いてあることは、フィンランドではすでに現実のものとなっている。
 日本ではどうなっていくであろうか。現実化するためには、政治経済の問題と、人々自身の人生創造とが重なりあわないと実現しないことだ。
 本書では、具体例として、ベルギーのキャリア休暇制を紹介している。

 「ベルギーの休暇制度は,ワーク・ライフ・バランス政策に純化したものである。 2001年に労使交渉によって成立したもので、休暇に関しては時間クレジット制に転換した。労働者は、時間クレジットを使って理由を問わず一定時間の休暇が取れるようになった。育児・家族看護及び末期看取りなどのテーマ休暇の場合には使用者は申請を拒否できず,それ以外の場合には企業労働力の5%を上限とすることができる。完全休暇及びハーフタイム勤務の上限は1年だが,労使協定で5年まで延長できる。休暇中の労働者には,月500ユーロの手当が連邦政府から支給されるが、それに上乗せ給付を設ける自治体もある。」P106

 こうした形を取ると、経済に悪影響を及ぼすという議論が出そうだが、フィンランドではそうではない。このところ、EU諸国の国債格付け引き下げが話題になっているが、ドイツ、オランダとならんでフィンランドはトップの位置のままだ。アメリカや日本より高いのだ。それだけ経済力が高く評価されているようだ。
 休みを十分かつ適切にとることが、むしろ経済にもプラスになる、という発想が必要だろう。

 

 写真は、本文に関係なく、ブーゲンビリアの花。赤いのが花ではなく、なかの白いのが花だ。気づかれにくいが。

  
Posted by 浅野誠 at 07:17Comments(0)生き方・人生

2012年01月17日

ラストスパートがかかるか 問題発見演習

 この授業もあとわずか。ポイントゲットの特別メニューへの取り組み本格化が期待される。
 残念なことに、16日提出者はゼロ。出席者の取り組み計画を出し合い、アドバイスしあう。
 多かったのは「いろいろな人生」のインタビュー。世代ごとに違いを調べたいというのが多かった。
 盛り上がったのは、北中城の地域おこしプランづくり。アーサを使ってのプランを作りたいとのこと。このクラスは中部出身者が多くて、北中の話題に、いろいろな発言が飛び出す。もっとも、私の昔話が多かったが。
 30年前の若者と現在の若者の文化の違い、生活の違い、遊びの違いを調べるものも、盛り上がった。
 さて、次週は、どんな特別メニュー報告が飛び出すか。楽しみである。




 写真は、本文に関係なく枇杷の花。昨年はたくさん咲いて実もたくさん付いたが、台風で全滅した。今年こそと期待している。

  
Posted by 浅野誠 at 17:11Comments(0)授業・学生

2012年01月17日

移民と出稼ぎ 「沖縄県史各論編第五巻近代」を読む18


  (前回の続き)

2)「稼いでくる」という場合、出稼ぎという用語が使われることもあり、移民と出稼ぎとが微妙に重なったり、使い分けたりしている。とくに南洋群島の場合そのようだ。 

 「南洋群島への移民の聞き取り調査をした際に、彼らが移民と出稼ぎをはっきり区別して使っていることに気付いた。南洋興発の募集で出かけた人たちは移民であったが、自主的に渡航した人たちは移民でないということであった。日本の統治下になった南洋諸島へは、パスポートは不必要だったし、行きたい時にいつでも行けたので移民という感覚はなかったようである。」P343

 「県内や内地に出稼ぎに出て、引き続き南洋に渡った者もいた。彼らのなかには南洋への渡航費用を稼ぐために出稼ぎをしていた者、あるいは出稼ぎ先で儲かると聞いて南洋に向かう、など国内での稼ぎの延長線上に南洋行きがあった。「出稼ぎ」という表現は、(中略)沖縄では県内の都市や大東島などへの開拓、本土に働きにゆく際に使用される傾向があるが、「南洋出稼ぎ」は(中略)ウチナーンチュの南洋認識や国内出稼ぎとの関係が反映していた。」P349

 その「国内出稼ぎ」について、次のような記述がある。

 「関西への出稼ぎは一九一〇年代にはじまり、その多くは製糸・紡績工場に雇用された女性であった。一九二〇年から三〇年にかけては、年間約二万人の人が関西に職を求めた。那覇と大阪を結ぶ航路も一九一〇年代は月十便、二○年代には月十八便に増えている。一九二三年(大正十二)、上京の途中大阪て下船した大里康永は「大阪へ出稼ぎにいく連中と一緒の船に乗ったんです。女は紡績に、男はどこかの鉄工所へ行くんだという話を聞きましたがね。あのころの船の中は大へんでした。着くまでは三味線で踊り狂ったような日々でした。」(中略)と回想している。」P480

 出稼ぎとは少し異なるが、戦後の集団就職についても書かれている。

 「一九二〇年代と同様、一九五七年からはじまった本土への集団就職もまた、県内に雇用機会の少ない沖縄から多くの若者を関西へと送りだした。本土就職の第一陣である一二二人の若者を乗せた白雲丸が神戸港に着いたのは一九五七年十二月二四日。その後、高度経済成長期に働き手を必要とした本土への集団就職者は増え続けた。彼/彼女たちは、沖縄人がいて、沖縄の言葉で語り合うことができ、沖縄の料理を食べることができ、三線の音が聴こえる町を求めた。それは、一九二〇年代から三〇年代に形成された沖縄人のコミュニティだった。大正区では、集団就職で関西へ来た青年たちが中心となって一九七五年からはじまったエイサー祭りが現在も続いている。」P481

 こうした移民と出稼ぎは、沖縄との関係を深く持ちつつ行われた点に特質がある。また、経済的必要を軸に行われるが、移民・出稼ぎ先地域との連携交流の促進と同時に、沖縄文化・沖縄アイデンティティの形成にもかかわることに注目したい。




 写真は、本文に関係なく長命草の花。

  
Posted by 浅野誠 at 07:19Comments(0)沖縄の歴史・民俗

2012年01月16日

話題二つ プリンター修理 懸賞締切前に正解掲載への怒り

 年末に依頼したプリンター修理が、年を越して20日近くかかったが、ようやく戻ってきた。沖縄では修理ができず、新年になってから茨城の工場まで送って修理ということになった。ギアがこわれたらしい。
 早速、滞っていたプリントやスキャナーの作業を再開。

 先日、ある方にプリンター故障修理に時間がかかって困っている話をしたら、もっといらいらすることがある、という話を返された。

 話はこうだ。
 正月の新聞はいろいろとバラエティに富んでいるが、そのなかに超大型のクロスワードパズルがあり、それを埋めていくのが楽しみだ、ということだ。辞書や参考書を片手にすごく時間をかけてやっとできたので、解答を書いて懸賞に応募なさったとのこと。
 ところがだ。応募締切前に、新聞に解答が発表されたというのだ。とすると、パズルを解く苦労なしに、懸賞に応募できるということだ。その方、新聞社に電話をして、「どうなっているのだ」と尋ねたら、担当者はニコニコしながら、「応募者を増やすために、解答を公開した」とのこと。
 その方の怒りは収まらない。新聞社に、抗議の気持ちをこめた質問の手紙を送ったとのこと。さて、新聞社はどう答えるのだろうか。

 こうした類いを時々みかける。クイズと言いながら、答えがすぐ近くに書いてある類いだ。
 しかし、今回は大変な労苦を求めるものであり、解答者はチャレンジの気持ちが強い。そういう人と、労苦なしに応募する人とでは、雲泥の差だ。労苦をかけた人の怒りはもっともだ。だから、笑ってすますわけにはいかないかもしれない。
 よく報道における倫理ということが話題になるが、これは範囲外のことだろうか。

 

 写真は、本文に関係なくクフェアの花。とても小さいが、たくさん咲く。草花ではなく、小さい木に一杯花をつける。落ちた種で広がる。

  
Posted by 浅野誠 at 17:17Comments(0)日常の暮らし

2012年01月16日

仲本安一「激動期を走る」(琉球新報社2010年)を読む

 昨年末、仲地博さんから贈呈された。彼が、本書の序文「自立沖縄を求め続けた男」を執筆している。いただいた際、仲地さんから、仲本さんが私の沖縄タイムス教育欄連載「沖縄おこし・人生おこし」を高く評価しておられることをお聞きした。
 私は、1973年ごろ宇栄原小学校PTAで講演したが、その際、PTAの会長かなにか役員を務めておられた仲本さんとお会いした記憶がある。その後、拝顔したことはあるが、会話をしたほどの記憶はない。著名人であるから、新聞報道などに接することは多かったが。また、数年前、琉球新報に連載された仲本安一「人物列伝――戦後沖縄の政治家たち――」(後にまとめて出版)を興味深く読まさせていただいた。
 ということではあるが、仲本さんについて詳しく知っていたわけではない。今回、半生伝である本書を読んで、仲本像をより深く知ることができた。タイトル通り「走る」半生そのもの印象だ。1960年代以降の沖縄政治氏のなかで重要な位置を占め続けてこられたから当然だろう。

 仲本さんは〔政界引退〕ということではあるが、2007年の超党派有志の会「復帰三五年・沖縄宣言」、2010年の超党派有志の会「沖縄特例地域・推進宣言」を、リーダーシップをとってまとめられている。
 仲地さんの序文タイトルでもある「自立沖縄を求め続けた」仲本さんの考えは、それらの宣言にも反映している。また、それは私の「沖縄おこし・人生おこしの教育」と共通するところが多い。さらにまた、本書第二部「評論と随筆」の冒頭にある「私の座右の銘―和而不同」は、私の「異質協同」と共通する内容である。

 仲本さんは、沖縄自立、沖縄おこしにとって、今後も重要な役割を果たすべき人だろう。ご活躍を期待したい。


 

 写真は、本文に関係なくクロトンの花。小さいし地味で気付かないほどだ。

  
Posted by 浅野誠 at 07:17Comments(0)沖縄

2012年01月15日

そろばん 幼少期の思い出4

 私が小学校に入ったのは、1952年のことだ。保育園とか幼稚園とかには行っていない。近隣にはなく、電車でしか通えない隣の笠松町にしかなかったから、余程の裕福な家庭の子どもが通うものだった。
 小学校時代に、お稽古ごとや習い事塾は、そろばん塾があったぐらいだった。学習塾もなかった。そろばん塾から先生が出張して、小学校内でそろばん教室があった。婦人服仕立てが家業の我が家では、そろばんを習っておく必要はあったようだ。そこで、放課後の校内そろばん教室に通った。2年生か3年生かぐらいだった。ほかに習字教室もあった。これらの授業料がどうなっていたかは記憶にない。同級生のかなりが出席していた。

 私は、そろばんを結構得意にしていた。学校のそろばん教室だけでは満足できず、自転車で10分余りの隣の字公民館で、週1~2回のそろばん塾に通った。3年か4年の時、3級合格したので、郡の大会に出ることになった。大人も混ざっての大会だった。
 そこでの読み上げ算競技は、間違えたら脱落していく形だったが、何十人もの参加者のなかで、なぜか、私はベスト3に残っていた。その後は緊張のあまり指は動かなく、3位になった。しかし、小学校4年生が大人も混じっての競技で、その成績を収めたので驚かれたようだ。

 そこで、村のそろばん塾ではなく、笠松にある本校に通うように言われた。そのころの笠松は、私にとって映画館もある大きな町というイメージで、私が住む田舎の柳津村から行くだけで、大変なことだった。今思えば、わずか2~3キロぐらいの距離だが。
町のそろばん学校の本校に通う最初の日、私は緊張の余り授業中おもらしをしてしまった。そんなことがあり、街の本校通いは、一回でやめた。そろばんは習い続けたが、暗算が苦手で、暗算の代わりに商業計算で2級をとった。
 私には、そろばんは苦い思い出の方が強い。



 

 
 ニチニチソウ なぜか色違いの2種の花。7年ほど前に種をまいた記憶があるが、以降、庭のあちこちで開花。

  
Posted by 浅野誠 at 17:17Comments(0)私の生き方・人生

2012年01月15日

南城地域の共通性など 南城市史2

 (12日掲載の前回の続き)

 5)南城市の旧4町村の共通性ということで、想定されそうなことを挙げてみよう。
・地質  石灰岩層と泥岩層の組み合わせ
・貝塚時代におけるイノーでの魚介類採取
・グスク時代における「神々」  首里王府時代における神関連にかかわる重要な位置
  その点では、この時期を反映した本書のなかのオモロ記述は興味深い。
・農業生産が主流の時代における農業生産

・さらに、明治期以降、今日に至るまでのなかで、どのようなものを挙げることができるか。
 さらに、今日、どのようなものを想定するか
考えていくと、興味深いことが多く出そうだ。

 6)差異は、旧4町村の差異というだけでなく、差異を地域個性ということで考えると、多様なレベルで存在している。では、どのようなものを差異として想定し、地域づくりを構想実践していくか。すでに地域差異に基づいて策定されている計画などがあり、本書にも掲載されているが、それが今後の足がかりになろう。

 7)通史で描かれたことを、ベースにして今後、どのように展開していくか。また、紙幅の都合があろうが、おおまかなスケッチに留めている事項をいかに掘り下げていくのか。戦前の地方政治や教育に関する記述などはその例だろう。また、戦後、とくに現在に近い所ほど、行政報告的色彩が濃くなる。それは止むを得ない面があろう。
 市史編集発行計画は20年間で10冊余りのものであり、それらに、本書がどう生かされていくか、今後の展開に期待したい。

※ 付け加え 私個人にとっていうと、居住している玉城以外の旧3町村については、知らないことが多いので、学んだことは多い。このことは南城市内のどの読者についても言えそうだ。「南城市入門」として読むこともいいだろう。

 全体を通してのことはこれくらいにして、記述の中で注目した点を、次回以降いくつか紹介コメントしていこう。



 写真は、つわぶき


  
Posted by 浅野誠 at 07:24Comments(0)沖縄の歴史・民俗