2009年07月04日
佐敷・大里には、まだ見てない遺跡が多い
先日の南城市のグスク遺跡展示会場で配布された、あるいは購入したパンフレットなどに、目を通した。
初めて名前を知る遺跡は少なかったが、まだきちんと見ていない遺跡は、大里・佐敷などに多い。たとえば、
島添大里グスク
稲福遺跡群
場天御嶽周辺
佐敷上グスク
そして、小谷周辺
多分、見学会などが企画されるだろうから、その時を逃さずに行きたい、と思う。
小谷を除けば、いずれも、14,15世紀の沖縄史にとっても重要な場だ。13世紀以前もそうだったと思うが。
この時期、南城市を構成する4つの地域には、有力な実力者がいて、地域覇権をめぐってのせめぎあいがあり、城塞化したグスクも多い。
遺跡の多くは、この実力者を中心にして話題化されている。だが、人々の生活・生産のストーリーがあって、これらの実力者たちがいるのだ。しかし、そのあたりは物語化されず、もっぱら実力者たちの物語ばかりが、継承されている。
その前の物語、ヤハラヅカサなどが登場する物語にしてもそんな様相が強い。
この時代は、沖縄社会が実に豊かに展開する時代だ。そのなかにあって、南城四地域は際立つ地域だ。そうした角度から、歴史と物語の再構成が求められているのではないだろうか。
初めて名前を知る遺跡は少なかったが、まだきちんと見ていない遺跡は、大里・佐敷などに多い。たとえば、
島添大里グスク
稲福遺跡群
場天御嶽周辺
佐敷上グスク
そして、小谷周辺
多分、見学会などが企画されるだろうから、その時を逃さずに行きたい、と思う。
小谷を除けば、いずれも、14,15世紀の沖縄史にとっても重要な場だ。13世紀以前もそうだったと思うが。
この時期、南城市を構成する4つの地域には、有力な実力者がいて、地域覇権をめぐってのせめぎあいがあり、城塞化したグスクも多い。
遺跡の多くは、この実力者を中心にして話題化されている。だが、人々の生活・生産のストーリーがあって、これらの実力者たちがいるのだ。しかし、そのあたりは物語化されず、もっぱら実力者たちの物語ばかりが、継承されている。
その前の物語、ヤハラヅカサなどが登場する物語にしてもそんな様相が強い。
この時代は、沖縄社会が実に豊かに展開する時代だ。そのなかにあって、南城四地域は際立つ地域だ。そうした角度から、歴史と物語の再構成が求められているのではないだろうか。
2009年07月04日
2009年07月04日
23対21というスコアははじめて 激戦の教職員卓球大会
今日は定例の沖縄教職員卓球大会。
団体は、いつもの通り琉球大学チームから出る。
Aリーグは、4チームで、3シングルで競う。
私は、いずれも、5セットのフルセットの勝負にもつれた。
最初の対戦相手は、30年ぶりに対戦。かっても激戦をし、当時は分が悪かったが、今回はなんとか勝たせていただいた。二番目は、現役、卓球部顧問。無理だろうと思っていたが、最終セット、ジュースまでもつれこんで、惜敗。
第三試合は、最近よくあたる方で、いつも大激戦の末勝たせていただいているが、今回も同じ結果。
個人戦は、最近めきめきと実力をあげている方で、前回あっさりと負けてしまった。今回も激戦、第一セットを取られたあと、2セットを挽回し、第4セットは、ジュースの連続。21オールまでいった。昔の21までの試合を思い出す。そして、ようやく23-21で勝つ。
もうここまでくると、体力がもたない。次の試合は、あっさり負ける。
でも大満足だった。なにしろ23セットもしたし、23―-21もあったし。
団体は、いつもの通り琉球大学チームから出る。
Aリーグは、4チームで、3シングルで競う。
私は、いずれも、5セットのフルセットの勝負にもつれた。
最初の対戦相手は、30年ぶりに対戦。かっても激戦をし、当時は分が悪かったが、今回はなんとか勝たせていただいた。二番目は、現役、卓球部顧問。無理だろうと思っていたが、最終セット、ジュースまでもつれこんで、惜敗。
第三試合は、最近よくあたる方で、いつも大激戦の末勝たせていただいているが、今回も同じ結果。
個人戦は、最近めきめきと実力をあげている方で、前回あっさりと負けてしまった。今回も激戦、第一セットを取られたあと、2セットを挽回し、第4セットは、ジュースの連続。21オールまでいった。昔の21までの試合を思い出す。そして、ようやく23-21で勝つ。
もうここまでくると、体力がもたない。次の試合は、あっさり負ける。
でも大満足だった。なにしろ23セットもしたし、23―-21もあったし。
2009年07月03日
ジュンク堂で私の本が平積み
懐かしいダイナハの場所がジュンク堂になった専門書が揃っているので、東京の書店に行く必要がなくなった
「沖縄田舎暮らし」も「ワークショップガイド」も平積みだった
これで、小さな本やさんは困るかもしれないが。
でも、今日のお客さんは少ない。ダイナハのようにならないことを祈る。
2009年07月03日
2009年07月03日
ロープにブーゲンビリアをはわせて、屋上まで誘導しよう

地上から、10メートルになった我が家のブーゲンビリア。
元気よくまだまだ伸びそう。屋上までいかせるために、屋上からロープで網めいたものをつりさげた。
写真は、4階から撮影
今年中に、4階まで、来年には屋上までと、皮算用だ。
2009年07月02日
2009年07月02日
私の卓球スタイル2 ロビングなど
私の卓球スタイルは、とてもユニークなので、ちょっと「有名」かもしれない。面白いといって、見て楽しむ人もいる。
要するに、スマッシュされたら、高くボールをあげて返すのである。3~4メートルはあげるだろうか。ただ返してはだめなので、いろいろと回転をかける。そのためもあって、後にどんどん下がることが多い。7~8メートルぐらい下がることもあるだろうか。
それでも、4~5回スマッシュを返せる人には降参だ。それにパワーあふれる人には、ロビングではかえせないので、最初から刃がたたない。
要するに、私と同等レベル以下の人には使える。上の人には、打ち返したり、私の方からもスマッシュすることを混ぜていかなくてはならない。現在は、その修業中だ。
こんななやり方は誰かに習ったわけではない。1970年代後半に、試合中に苦し紛れにはじめて以降、「磨き」をかけてきたものだ。だから、人に教えたこともないし、教えてくれという人もいない。
こんな風に、私独特のものは多い。サービスエースが多い方だと思うが、それも、最初は誰かから習ったが、私独特なものに変化しているので、相手が迷うのだ。ラバーも裏表異質を使って、相手を撹乱する作戦を使うことも結構ある。
といった風に独特効果で、最初は勝つが、そのうち手の打ちがばれて、負けだすというパターンが多い。
それでも、苦労して、必死で試合をしているというよりも、楽しみながらやっているので、卓球は私の精神衛生にいいスポーツだ。
要するに、スマッシュされたら、高くボールをあげて返すのである。3~4メートルはあげるだろうか。ただ返してはだめなので、いろいろと回転をかける。そのためもあって、後にどんどん下がることが多い。7~8メートルぐらい下がることもあるだろうか。
それでも、4~5回スマッシュを返せる人には降参だ。それにパワーあふれる人には、ロビングではかえせないので、最初から刃がたたない。
要するに、私と同等レベル以下の人には使える。上の人には、打ち返したり、私の方からもスマッシュすることを混ぜていかなくてはならない。現在は、その修業中だ。
こんななやり方は誰かに習ったわけではない。1970年代後半に、試合中に苦し紛れにはじめて以降、「磨き」をかけてきたものだ。だから、人に教えたこともないし、教えてくれという人もいない。
こんな風に、私独特のものは多い。サービスエースが多い方だと思うが、それも、最初は誰かから習ったが、私独特なものに変化しているので、相手が迷うのだ。ラバーも裏表異質を使って、相手を撹乱する作戦を使うことも結構ある。
といった風に独特効果で、最初は勝つが、そのうち手の打ちがばれて、負けだすというパターンが多い。
それでも、苦労して、必死で試合をしているというよりも、楽しみながらやっているので、卓球は私の精神衛生にいいスポーツだ。
2009年07月01日
看護大学6 −養護教諭の取り組み

バラエテイーに富んだ看護の取り組みが、表現されました。
写真のグループ以外は、演技でした。
慣れてきて、表現もうまくなってきたように感じました。
今日の問題提起が、現場での活動のヒントになればと、願っています。
2009年07月01日
2009年06月30日
2009年06月30日
2009年06月30日
2009年06月30日
初めての整骨院
恵美子の強力な勧めで行くかりゆし軽便駅の向かい
整形外科とマッサージを合わせてやるといった感じ
卓球による腰痛に効きそう
しばらく通ってみようかな
いろんなマッサージ機器と人間によるマッサージを合わせてやる
2009年06月30日
2009年06月29日
ヤマトゥンチュウだけでかたまるのは好きでない
最近の沖縄には、ヤマトゥンチュウがとても増えたように思う。
わたしが沖縄にきた「復帰」前夜のころと比べると、雲泥の差だと感じるくらいだ。
そのころから、ヤマトゥンチュウだけの、あるいは、かなりがヤマトゥンチュウという場は好きではなかった。いまはどうだかよくはわからないが、当時、そんな場では、ウチナータイムとか、お店に店員がいなかったり、対応が悪く「商売する気なのか」といったことが、よく話題になったりした。そこにウチナーンチュウがいると、「○○さんがいるところで、こんなことを言うのは悪いけど」といったりもする。
そんなこともあって、ヤマトゥンチュウがとても多い公務員宿舎に入ることは、最初から考えていなかった。最初は、那覇のマンション、次は、当時は全くの田舎だった、南風原の新川、ヤマトゥンチュウは、私をふくめて、3人ぐらいだった。
そして、西原の小波津団地。ここでは1000人近くの住民のなかで、私以外のヤマトゥンチュウは記憶にない。そして、現在の中山。ここもヤマトゥンチュウは、全部で10人に満たない。
無論、ウチナーンチュウだけでかたまるのもすきではない。多様な人々が交流するのが好きだ。そして、沖縄風に交流するのが好きだ。
かつては、仕事の都合で、沖縄に来たヤマトゥンチュウが多かったが、最近では、希望というか、決断をして沖縄にきている人が多い。だけど、別荘地に住み、近隣や地元との付き合いをできるだけ少なくしている人が結構いるという。住民票も移さない人もいるそうだ。南城市かいわいではそういう人は少ないが。
そういう人は、沖縄の自然・景観を愛してるが、沖縄の人々との付き合いは少ない。そういう方々は、普段から大都市型の生活をしておられ、近隣との付き合いは、最小限にとどめておられるので、それが普通なのだろう。
しかし、私は、沖縄のいいところは、自然だけでなく、人々にあると思っている。そして、沖縄に住む以上、「その人なりのウチナーンチュウ」になってほしいと思う。
だから、ヤマトゥンチュウだけで固まったり、ヤマトゥンチュウばかりがいる場が、私はすきではない。
でも、これだけヤマトゥンチュウが増え、那覇の新都心のような「大都市ふーじ」のところができると、大都市をウリにし、ヤマトゥンチュウだけが集まる、あるいはヤマトゥンチュウがかなり多い場ができているのだろう。
そして、かつてのウチナーンチュウに多少はあった「あこがれの大都市」とは異なった意味で、ヤマトゥンチュウが「大都市」風がにじみ出る場を求める傾向が出てくるだろう。
20年ほど前に、ウチナーンチュウと東京の人のカップルの結婚相談を受けたが、その東京の人が、「これは東京の人が好きなお菓子です」といって、沖縄の「田舎者」には珍味だろうと、あきらかにさげすむ雰囲気で、土産を渡された。これで、一度に相談へのやる気が萎えた。
こんなあからさまなのは極端だが、それに似た感じを振りまく「東京人」は今でもいる。東京に長くいたり、東京で一定の成功を収めたりすると、そういう感じになるのだろうか。
こんなことを書いていると、私はヤマトゥンチュウなの? ウチナーンチュウ?なの、と尋ねられそうだ。自己紹介をしないでいると、ウチナーンチュウだと思っている人は多い。愛知の大学に移ったころ、私のウチナー式大和口に気づいて親しげによってきたウチナーンチュウ学生が結構多かった。いまでも、若い人には、私をウチナーンチュウだと思う人は多い。また、恵美子がヤマトゥンチュウで、私がウチナーンチュウだと思う40,50代お人は多い。でも60歳以上の人は私がヤマトゥンチュウであることにすぐに気づく。だから、高世代には、ウチナームクであると紹介する。
わたしが沖縄にきた「復帰」前夜のころと比べると、雲泥の差だと感じるくらいだ。
そのころから、ヤマトゥンチュウだけの、あるいは、かなりがヤマトゥンチュウという場は好きではなかった。いまはどうだかよくはわからないが、当時、そんな場では、ウチナータイムとか、お店に店員がいなかったり、対応が悪く「商売する気なのか」といったことが、よく話題になったりした。そこにウチナーンチュウがいると、「○○さんがいるところで、こんなことを言うのは悪いけど」といったりもする。
そんなこともあって、ヤマトゥンチュウがとても多い公務員宿舎に入ることは、最初から考えていなかった。最初は、那覇のマンション、次は、当時は全くの田舎だった、南風原の新川、ヤマトゥンチュウは、私をふくめて、3人ぐらいだった。
そして、西原の小波津団地。ここでは1000人近くの住民のなかで、私以外のヤマトゥンチュウは記憶にない。そして、現在の中山。ここもヤマトゥンチュウは、全部で10人に満たない。
無論、ウチナーンチュウだけでかたまるのもすきではない。多様な人々が交流するのが好きだ。そして、沖縄風に交流するのが好きだ。
かつては、仕事の都合で、沖縄に来たヤマトゥンチュウが多かったが、最近では、希望というか、決断をして沖縄にきている人が多い。だけど、別荘地に住み、近隣や地元との付き合いをできるだけ少なくしている人が結構いるという。住民票も移さない人もいるそうだ。南城市かいわいではそういう人は少ないが。
そういう人は、沖縄の自然・景観を愛してるが、沖縄の人々との付き合いは少ない。そういう方々は、普段から大都市型の生活をしておられ、近隣との付き合いは、最小限にとどめておられるので、それが普通なのだろう。
しかし、私は、沖縄のいいところは、自然だけでなく、人々にあると思っている。そして、沖縄に住む以上、「その人なりのウチナーンチュウ」になってほしいと思う。
だから、ヤマトゥンチュウだけで固まったり、ヤマトゥンチュウばかりがいる場が、私はすきではない。
でも、これだけヤマトゥンチュウが増え、那覇の新都心のような「大都市ふーじ」のところができると、大都市をウリにし、ヤマトゥンチュウだけが集まる、あるいはヤマトゥンチュウがかなり多い場ができているのだろう。
そして、かつてのウチナーンチュウに多少はあった「あこがれの大都市」とは異なった意味で、ヤマトゥンチュウが「大都市」風がにじみ出る場を求める傾向が出てくるだろう。
20年ほど前に、ウチナーンチュウと東京の人のカップルの結婚相談を受けたが、その東京の人が、「これは東京の人が好きなお菓子です」といって、沖縄の「田舎者」には珍味だろうと、あきらかにさげすむ雰囲気で、土産を渡された。これで、一度に相談へのやる気が萎えた。
こんなあからさまなのは極端だが、それに似た感じを振りまく「東京人」は今でもいる。東京に長くいたり、東京で一定の成功を収めたりすると、そういう感じになるのだろうか。
こんなことを書いていると、私はヤマトゥンチュウなの? ウチナーンチュウ?なの、と尋ねられそうだ。自己紹介をしないでいると、ウチナーンチュウだと思っている人は多い。愛知の大学に移ったころ、私のウチナー式大和口に気づいて親しげによってきたウチナーンチュウ学生が結構多かった。いまでも、若い人には、私をウチナーンチュウだと思う人は多い。また、恵美子がヤマトゥンチュウで、私がウチナーンチュウだと思う40,50代お人は多い。でも60歳以上の人は私がヤマトゥンチュウであることにすぐに気づく。だから、高世代には、ウチナームクであると紹介する。
2009年06月29日
我が家のマンゴー
先の記事のものの大きさは、11~16センチ。
5月の記事に書いたが、我が家のはキンコーマンゴー。よく見かける二つの種類とは異なる。ビニールハウス不要という、私には好都合。昨年は、袋かけをしたが、今年はしていない。まさに自然農法!
このマンゴーは、黄色くとか、紫色にはならない。緑色のままで熟していく。収穫後数日ぐらいで、ほんのり黄色くなり、おさえてやわらかみを感じれば、食べごろ。
こうもりが狙っているので、収穫のタイミングは難しい。落ちたり、こうもりに取られたりするよりはましなので、早目に収穫している。
私の手入れは、昨年の収穫後、三分の一ぐらいの枝を剪定し、根元に置いたことと堆肥2袋700円を根元に置いたことぐらいだ。
さて、来年はどうなるだろうか
今年の収穫作業は、あと数回しなくてはならない。
2009年06月29日
2009年06月28日
梅雨明けの星空 さそり座 夏の大三角 天の川
今日、梅雨明け
夜空も美しい
五日月でちょっと明るいが、星空が美しい。
一年ぶりの出会いの星座たち。
玉城に来てはじめて、さそり座を確認したのを思い出す。
以前住んでいた、那覇、南風原、西原の家からは無理だった。
これからの季節、星空を楽しめる。今年は幾つぐらい流れ星を楽しめるだろうか。
本当は、写真記事をのせたいが、それほどにカメラに打ち込んでいるわけではないので、お許し願いたい。
夜空も美しい
五日月でちょっと明るいが、星空が美しい。
一年ぶりの出会いの星座たち。
玉城に来てはじめて、さそり座を確認したのを思い出す。
以前住んでいた、那覇、南風原、西原の家からは無理だった。
これからの季節、星空を楽しめる。今年は幾つぐらい流れ星を楽しめるだろうか。
本当は、写真記事をのせたいが、それほどにカメラに打ち込んでいるわけではないので、お許し願いたい。
2009年06月28日
2009年06月28日
2009年06月28日
「地域と大学の共創まちづくり」(学芸出版社2008年)を読む
「小林英嗣+地域・大学連携まちづくり研究会」というとても長い編著者名をもつ、大部な本だ。
タイトルが、私の最近の関心事と重なるので、読んでみた。日本だけでなく、アメリカを中心に世界の大学の具体的事例を紹介している。建築家たちがつくる研究会によるものだから、建築・都市計画といった角度からのアプローチが多いのは当然だが、これらの分野に疎い私にとっては、新鮮さを感じる本だった。
私がこうしたテーマに関心をもちはじめたのは、1970年代後半だった。琉球大学が首里から西原へ移転するに伴い、所属する教育学部の建物建築計画を作成する委員会メンバーになったためだ。隣の法文学部が、文部省の基準通りにすんなりと、しかし、というか、だからというか、建物としての独自性なしに計画ができ、建築が進んだ。文部省が詳細な基準をもっていなかった教育学部では、対照的に数年かけての議論の中でようやく計画をつくりあげた。学科間の利害関係の調節が難しかったこともある。結果的に、その調整役的な役回りをしたわたしは、最終案のえらく長い文を執筆したが、その裏には段ボール一箱の資料があった。
それでも、これらはとても楽しい作業であった。それは、著名な画家安次富長昭さんをはじめ、メンバーには見識の高い方々がおられ、志の高い仕事が出来たからだ。とくに、建築家の鈴木雅夫先生が果たした役割は大きかった。ドアやブラインドの配色までこだわり、学生の動きにも注目された。そのなかで、学生と教員が混然一体となって、教育・研究・生活をともにするという教育学部建物のユニークさが作られていった。
よく、建物をハード、その使用をソフトに分ける発想に出会うが、教育学部の建物建築にあたっては、両者をすっぱりと分けてはいなかった。
こうした発想をお役所がつくる建物で押し進めるのは、当時としては大変な障害と「闘い」ながら進めていかなくてはならなかった。90年代半ば以前の各地の国立大学の建物を見れば、規格にはまったものばかりであることが、そのことを示している。
その国立大学でも、90年代後半から、大学の独自性がみられるようになったことは喜ばしい。
そんな流れと、本書が提起するものと結びつけて考えながら読み進めた。しかし、「地域と大学の共創まちづくり」という発想は、私には最近に至るまで、ほとんどなかった。その意味でも本書が提起するものは新鮮だった。
偶然のことだが、つい最近、ピンチヒッターでの西原町史の執筆分担を依頼された。テーマは、琉球大学・キリスト教短大の西原移転に焦点を当てるものだった。両大学の西原移転にともなって、「文教の町西原」を打ち出しこともかかわっている。当時、私は西原に住んではいたが、西原側からの視点で、大学移転を考えたことはなかった。キリスト教短大は、妻の勤務先でもあった。
その意味では、当時考えていなかった、地域側から大学をとらえる作業を、今、改めてすることになったのだ。しかも、今、南城市にいて、地域と大学というテーマを考えているところだったし、おまけに地域に開かれた大学づくりを追求する沖縄大学の教育活動にもかかわりはじめた。
こんな風に、偶然が重なりあう中で、この本を読んだのだ。
本書の章タイトルは、
2章 都市・地域の空間と機能の再生・創造
3章 環境の保全・再生
4章 地域経済の再生・振興
5章 担い手を育成するプログラム
6章 共創まちづくりを進める仕組み
7章 共創まちづくりの視座と可能性
これらのなかでだされた事例のなかで、私の興味を引いたものを並べておこう。
キャンパス緑地を保全・活用する市民と大学の協働プラットフォーム(金沢大学)
地域コミュニテイの交流の場へと展開する商店街のまちなか研究室(関東学院大学)
都市再生プロジェクトにおける大学の新たな役割(イギリス ブラッドフォード大学)
創造都市を推進する国際的研究教育拠点を目指して(大阪市立大学)
農山村エリアに展開する「やまなかキャンパス」を契機とした地域の人材育成(山形大学)
学生まちづくりの動向と展望
まちづくりを使命とする公設民営大学の戦略(東北公益文科大学)
大学と地域との関係は、7章の叙述でいうと、次のように多岐にわたる。
「大学は研究、教育を担う学問の拠点として教員、研究者、職員、学生など大学に属する個人レベルの活動に対して施設や環境など場の提供をし、また知的交流や研究成果の公開など知的資源の提供を担ってきた。同時に周辺の都市、地域に対しては、大学で働く多様な人材の雇用機会の創出や研究成果の公開や専門家派遣などを通した新産業の孵化・支援(インキュベーション)を行い、教育活動を通した高度専門分野の人材育成と地域社会への供給を担ってきた。さらにキャンパス空間の開放や植物園(中略)など施設建物の市民利用を通した社会貢献など、地域社会との関係は多岐に渡っている。
大学と地域の双方に関わる地域市民としての教員、学生は、研究,教育、学習、居住、消費、生産、文化、芸術、スポーツなどを通した日常、非日常の社会関係を共有化してきた。他方、機関としては大学およびキャンパスが有する自然、歴史、景観、生態系などの有形、無形の資源の保全・再生による都市全体への環境面で大きな貢献をしており、いまや地域にとって欠かす事のできないインフラの一翼を担っている。」P184
実に広汎にわたるが、どれも当然のことだ。しかし、それらの多くが、大学と地域の関係の問題としては取り組まれてこなかったのだ。
この7章の執筆者は、大学と地域の関係展開のステップを、
ネットワーク→フォーラム→プラットフォーム→アリーナ→パートナーシップ→共創、
と説明するが、まずは上記の諸分野を意識化するための、ネットワークづくりから始まることが多くなるのが実情だろう。
それでも、まずはスタートすることだろう。
そして、本書のように、建築・都市計画からのアプローチ以外の多様な展開も期待されよう。
タイトルが、私の最近の関心事と重なるので、読んでみた。日本だけでなく、アメリカを中心に世界の大学の具体的事例を紹介している。建築家たちがつくる研究会によるものだから、建築・都市計画といった角度からのアプローチが多いのは当然だが、これらの分野に疎い私にとっては、新鮮さを感じる本だった。
私がこうしたテーマに関心をもちはじめたのは、1970年代後半だった。琉球大学が首里から西原へ移転するに伴い、所属する教育学部の建物建築計画を作成する委員会メンバーになったためだ。隣の法文学部が、文部省の基準通りにすんなりと、しかし、というか、だからというか、建物としての独自性なしに計画ができ、建築が進んだ。文部省が詳細な基準をもっていなかった教育学部では、対照的に数年かけての議論の中でようやく計画をつくりあげた。学科間の利害関係の調節が難しかったこともある。結果的に、その調整役的な役回りをしたわたしは、最終案のえらく長い文を執筆したが、その裏には段ボール一箱の資料があった。
それでも、これらはとても楽しい作業であった。それは、著名な画家安次富長昭さんをはじめ、メンバーには見識の高い方々がおられ、志の高い仕事が出来たからだ。とくに、建築家の鈴木雅夫先生が果たした役割は大きかった。ドアやブラインドの配色までこだわり、学生の動きにも注目された。そのなかで、学生と教員が混然一体となって、教育・研究・生活をともにするという教育学部建物のユニークさが作られていった。
よく、建物をハード、その使用をソフトに分ける発想に出会うが、教育学部の建物建築にあたっては、両者をすっぱりと分けてはいなかった。
こうした発想をお役所がつくる建物で押し進めるのは、当時としては大変な障害と「闘い」ながら進めていかなくてはならなかった。90年代半ば以前の各地の国立大学の建物を見れば、規格にはまったものばかりであることが、そのことを示している。
その国立大学でも、90年代後半から、大学の独自性がみられるようになったことは喜ばしい。
そんな流れと、本書が提起するものと結びつけて考えながら読み進めた。しかし、「地域と大学の共創まちづくり」という発想は、私には最近に至るまで、ほとんどなかった。その意味でも本書が提起するものは新鮮だった。
偶然のことだが、つい最近、ピンチヒッターでの西原町史の執筆分担を依頼された。テーマは、琉球大学・キリスト教短大の西原移転に焦点を当てるものだった。両大学の西原移転にともなって、「文教の町西原」を打ち出しこともかかわっている。当時、私は西原に住んではいたが、西原側からの視点で、大学移転を考えたことはなかった。キリスト教短大は、妻の勤務先でもあった。
その意味では、当時考えていなかった、地域側から大学をとらえる作業を、今、改めてすることになったのだ。しかも、今、南城市にいて、地域と大学というテーマを考えているところだったし、おまけに地域に開かれた大学づくりを追求する沖縄大学の教育活動にもかかわりはじめた。
こんな風に、偶然が重なりあう中で、この本を読んだのだ。
本書の章タイトルは、
2章 都市・地域の空間と機能の再生・創造
3章 環境の保全・再生
4章 地域経済の再生・振興
5章 担い手を育成するプログラム
6章 共創まちづくりを進める仕組み
7章 共創まちづくりの視座と可能性
これらのなかでだされた事例のなかで、私の興味を引いたものを並べておこう。
キャンパス緑地を保全・活用する市民と大学の協働プラットフォーム(金沢大学)
地域コミュニテイの交流の場へと展開する商店街のまちなか研究室(関東学院大学)
都市再生プロジェクトにおける大学の新たな役割(イギリス ブラッドフォード大学)
創造都市を推進する国際的研究教育拠点を目指して(大阪市立大学)
農山村エリアに展開する「やまなかキャンパス」を契機とした地域の人材育成(山形大学)
学生まちづくりの動向と展望
まちづくりを使命とする公設民営大学の戦略(東北公益文科大学)
大学と地域との関係は、7章の叙述でいうと、次のように多岐にわたる。
「大学は研究、教育を担う学問の拠点として教員、研究者、職員、学生など大学に属する個人レベルの活動に対して施設や環境など場の提供をし、また知的交流や研究成果の公開など知的資源の提供を担ってきた。同時に周辺の都市、地域に対しては、大学で働く多様な人材の雇用機会の創出や研究成果の公開や専門家派遣などを通した新産業の孵化・支援(インキュベーション)を行い、教育活動を通した高度専門分野の人材育成と地域社会への供給を担ってきた。さらにキャンパス空間の開放や植物園(中略)など施設建物の市民利用を通した社会貢献など、地域社会との関係は多岐に渡っている。
大学と地域の双方に関わる地域市民としての教員、学生は、研究,教育、学習、居住、消費、生産、文化、芸術、スポーツなどを通した日常、非日常の社会関係を共有化してきた。他方、機関としては大学およびキャンパスが有する自然、歴史、景観、生態系などの有形、無形の資源の保全・再生による都市全体への環境面で大きな貢献をしており、いまや地域にとって欠かす事のできないインフラの一翼を担っている。」P184
実に広汎にわたるが、どれも当然のことだ。しかし、それらの多くが、大学と地域の関係の問題としては取り組まれてこなかったのだ。
この7章の執筆者は、大学と地域の関係展開のステップを、
ネットワーク→フォーラム→プラットフォーム→アリーナ→パートナーシップ→共創、
と説明するが、まずは上記の諸分野を意識化するための、ネットワークづくりから始まることが多くなるのが実情だろう。
それでも、まずはスタートすることだろう。
そして、本書のように、建築・都市計画からのアプローチ以外の多様な展開も期待されよう。
2009年06月28日
2009年06月27日
沖縄でNPO立大学創設にあたって必要な検討事項
シブヤ大学の先行例を参照しつつ考えていきたい。
その前に、前回の記事で、「学びたい、教えたい科目」を開く話について書いたが、この話は新しいものではない。大学の起源話によく出てくる中世ヨーロッパの大学がすでにそうしたものをもっていた。だから、私のアイデアをだした時、ある大学人に「中世ヨーロッパの大学式ですね」といわれたことがある。
そういう伝統あるやり方を、「現役大学人」でない人を対象に展開しようというのが、今回の議論の一つなのだ。
さて、シブヤ大学は、インターネット世界のなかで生まれた、というかインターネット世界が大いに活用されて展開していることに特徴がある。開講授業への応募は、インターネットで受け付けられる。
この点でいうと、沖縄でこうした世界に現実に付き合っている人口は、シブヤ大学が基盤とする地域と比べると、ざっと計算して1/10~1/100だ。シブヤ大学でも、友達関係、口コミが結構多いらしいが、沖縄では、その比率がかなり高くなるだろう。
シブヤ大学では、学生年齢は、20代~30代がかなりを占めるが、沖縄にはその人口比率が低い点も考慮する必要がある。
シブヤ大学の学生たちは、大学卒業者がかなり多く、大学イメージをすでにもっているので、それ(特に既存大学への不満)を基盤に展開する面が強いが、沖縄の大学進学率は、渋谷あたりの半分であることをふまえる必要がある。私の「手作り大学」構想の一つのスタート点は、経済的理由を含んで、大学進学できなかった人たちに、大学(並)教育を保障するということがあった。
次は財政問題だ。シブヤ大学は、授業料ゼロでやっている。そして、行政や企業の委託などで、収入の多くを得ている。この点では、沖縄は大変厳しい。この点の検討提案が必要だ。
会の後のおしゃべり会では、沖縄旅行者を学生として迎えるアイデアが出されていた。私もいいアイデアだとして考えていた。だが、地域に住む人々の要求にこたえるという点では気になる。
実は、今日の会合もかなりの比率で県外出身者が多そうであったし、呼びかけ人全員が県外出身者ということは気になる。
いろいろと難しい点は多い。だがすべてが創造的なことだ。なによりも肝心なのは中心になってやる人の見通し・確信だろう。
私は創造的にやろうとする人々への協力は惜しまないつもりだ。
その前に、前回の記事で、「学びたい、教えたい科目」を開く話について書いたが、この話は新しいものではない。大学の起源話によく出てくる中世ヨーロッパの大学がすでにそうしたものをもっていた。だから、私のアイデアをだした時、ある大学人に「中世ヨーロッパの大学式ですね」といわれたことがある。
そういう伝統あるやり方を、「現役大学人」でない人を対象に展開しようというのが、今回の議論の一つなのだ。
さて、シブヤ大学は、インターネット世界のなかで生まれた、というかインターネット世界が大いに活用されて展開していることに特徴がある。開講授業への応募は、インターネットで受け付けられる。
この点でいうと、沖縄でこうした世界に現実に付き合っている人口は、シブヤ大学が基盤とする地域と比べると、ざっと計算して1/10~1/100だ。シブヤ大学でも、友達関係、口コミが結構多いらしいが、沖縄では、その比率がかなり高くなるだろう。
シブヤ大学では、学生年齢は、20代~30代がかなりを占めるが、沖縄にはその人口比率が低い点も考慮する必要がある。
シブヤ大学の学生たちは、大学卒業者がかなり多く、大学イメージをすでにもっているので、それ(特に既存大学への不満)を基盤に展開する面が強いが、沖縄の大学進学率は、渋谷あたりの半分であることをふまえる必要がある。私の「手作り大学」構想の一つのスタート点は、経済的理由を含んで、大学進学できなかった人たちに、大学(並)教育を保障するということがあった。
次は財政問題だ。シブヤ大学は、授業料ゼロでやっている。そして、行政や企業の委託などで、収入の多くを得ている。この点では、沖縄は大変厳しい。この点の検討提案が必要だ。
会の後のおしゃべり会では、沖縄旅行者を学生として迎えるアイデアが出されていた。私もいいアイデアだとして考えていた。だが、地域に住む人々の要求にこたえるという点では気になる。
実は、今日の会合もかなりの比率で県外出身者が多そうであったし、呼びかけ人全員が県外出身者ということは気になる。
いろいろと難しい点は多い。だがすべてが創造的なことだ。なによりも肝心なのは中心になってやる人の見通し・確信だろう。
私は創造的にやろうとする人々への協力は惜しまないつもりだ。
2009年06月27日
シブヤ大学と私の大学構想とのダブリ面
私はこのブログの昨年最後、大みそかの記事で、「手作り『大学』をつくろう」という提案をした。
その提案と、シブヤ大学との共通点を書いてみよう。
それはまず、こんな授業があったらいいな、と思う科目を、自分たちでつくって授業をすることにある。それは、これまでの大学にあるような、「法学概論」「中小企業経営論演習」「英会話」「熱力学」「育種学」といったように、学問研究分野に直接対応することにこだわらない。「これを学びたい」「これを教えたい」ということを考える人たちがスタートさせるのだ。
この種の提案を本格的に私がした最初は、2001年、当時勤務していた中京大学であった。採用されるには至らなかったが、いろいろな提案の呼び水になったし、その後、他の大学の方が興味をお持ちになられた話を聞いた。
最近では、沖縄大学の新たな授業展開の検討の際に、話題に出したところ関心を持たれ、もしかすると、来年あたり実現するかもしれない。
しかし、既存の大学では、制度上のこともあり、実現にいたるまでには、なかなか大変なことは確かである。ということで、既存の大学のこだわらずに、自称「大学」をつくってやってみよう、と提案したのだ。そして、近隣の何人かのかたから興味をもたれた。
切実にやってみたいという人があらわれ、またチャンスに恵まれれば、とおもっていたのだ。
ちょうどその折に、シブヤ大学に興味をもたれた知人が、「学習会」を開く案内を私に届けて下さった。数日前のことだった。そこで、はじめてシブヤ大学について、ウェブで調べ、今日の学習会で直接お話しを聞いたのだ。
今日出かけてみると、受付案内をしていた方は、今年の初めだったか、我が家にお見えになった方だった。呼びかけた3人のうち、お二人が旧知の方だった。
シブヤ大学は、私がいう「手作り」レベルのものではなく、専任、非専任あわせるとたくさんのスタッフがおられ、「学生」は10000人、開設した科目は数百という巨大なものだ。それでも、そこでの出会い、つながりが「手作り」性をもって広がっていくという点で、興味深い。
むろん、渋谷という場と、沖縄という場では大きな違いがあり、沖縄で類似のものを開くとしても、沖縄独自の工夫がもとめられる。おそらくシブヤ大学のノウハウで生かせるものは、かなり限られてくるだろう。そのあたりについては、次回書くことにしよう。
その提案と、シブヤ大学との共通点を書いてみよう。
それはまず、こんな授業があったらいいな、と思う科目を、自分たちでつくって授業をすることにある。それは、これまでの大学にあるような、「法学概論」「中小企業経営論演習」「英会話」「熱力学」「育種学」といったように、学問研究分野に直接対応することにこだわらない。「これを学びたい」「これを教えたい」ということを考える人たちがスタートさせるのだ。
この種の提案を本格的に私がした最初は、2001年、当時勤務していた中京大学であった。採用されるには至らなかったが、いろいろな提案の呼び水になったし、その後、他の大学の方が興味をお持ちになられた話を聞いた。
最近では、沖縄大学の新たな授業展開の検討の際に、話題に出したところ関心を持たれ、もしかすると、来年あたり実現するかもしれない。
しかし、既存の大学では、制度上のこともあり、実現にいたるまでには、なかなか大変なことは確かである。ということで、既存の大学のこだわらずに、自称「大学」をつくってやってみよう、と提案したのだ。そして、近隣の何人かのかたから興味をもたれた。
切実にやってみたいという人があらわれ、またチャンスに恵まれれば、とおもっていたのだ。
ちょうどその折に、シブヤ大学に興味をもたれた知人が、「学習会」を開く案内を私に届けて下さった。数日前のことだった。そこで、はじめてシブヤ大学について、ウェブで調べ、今日の学習会で直接お話しを聞いたのだ。
今日出かけてみると、受付案内をしていた方は、今年の初めだったか、我が家にお見えになった方だった。呼びかけた3人のうち、お二人が旧知の方だった。
シブヤ大学は、私がいう「手作り」レベルのものではなく、専任、非専任あわせるとたくさんのスタッフがおられ、「学生」は10000人、開設した科目は数百という巨大なものだ。それでも、そこでの出会い、つながりが「手作り」性をもって広がっていくという点で、興味深い。
むろん、渋谷という場と、沖縄という場では大きな違いがあり、沖縄で類似のものを開くとしても、沖縄独自の工夫がもとめられる。おそらくシブヤ大学のノウハウで生かせるものは、かなり限られてくるだろう。そのあたりについては、次回書くことにしよう。
2009年06月27日
シブヤ大学沖縄姉妹校づくりの話
今日、シブヤ大学の設立と現在の運営の中心的メンバーの方が、講師をつとめての集まりがあって、沖縄で姉妹校を作ろうと張り切っている知人の誘いで、私も参加した。
20代、30代中心の若い方々数十人が、熱心に話を聞く雰囲気に満ちていた。どうやらわたしが図抜けて最高齢のようだった。日頃参加する会合と全く雰囲気が異なり、若々しい。
とても魅力的な話が1時間余り続く。情報詰め込みすぎで、私の頭はパンクしそう。英単語が多いが、聞いたことがない単語が続出する。たぶん、英語というよりも、業界用語なのだろう。わからない単語は聞き飛ばすしかない。でも知っている単語で、私の使う意味と異なるときには、困ってしまう。たとえば「クリエイター」。私もそうだし、どこにでもいるクリエイターではないらしい。特別な職種を指すらしい。
さて、前置きはこれくらいにして、このシブヤ大学の話が、どう魅力的なのか、沖縄でそれを参考にするとしたら、どんことを考えなくてはならないのか、ついてはあらためて書くことにしよう。
20代、30代中心の若い方々数十人が、熱心に話を聞く雰囲気に満ちていた。どうやらわたしが図抜けて最高齢のようだった。日頃参加する会合と全く雰囲気が異なり、若々しい。
とても魅力的な話が1時間余り続く。情報詰め込みすぎで、私の頭はパンクしそう。英単語が多いが、聞いたことがない単語が続出する。たぶん、英語というよりも、業界用語なのだろう。わからない単語は聞き飛ばすしかない。でも知っている単語で、私の使う意味と異なるときには、困ってしまう。たとえば「クリエイター」。私もそうだし、どこにでもいるクリエイターではないらしい。特別な職種を指すらしい。
さて、前置きはこれくらいにして、このシブヤ大学の話が、どう魅力的なのか、沖縄でそれを参考にするとしたら、どんことを考えなくてはならないのか、ついてはあらためて書くことにしよう。
2009年06月27日
プロバイダーからインターネットトラブル解決との電話をいただく
先ほど、プロバイダー会社から電話で確認の電話があった。
無事再開を確認した。喜ばしい。
大元の「基地局」のトラブルとのことだが、原因はつかめてないらしい。
「何かトラブルがあったら、電話してください」との要請もあった。
原因をつきとめ、再発しないことを願うばかりである。
無事再開を確認した。喜ばしい。
大元の「基地局」のトラブルとのことだが、原因はつかめてないらしい。
「何かトラブルがあったら、電話してください」との要請もあった。
原因をつきとめ、再発しないことを願うばかりである。
2009年06月27日
2009年06月26日
2009年06月26日
アロエベラと逆流性食道炎
※ 嬉しいことに、つい先ほど、インターネットがつながった。1日以上ぶりだ。このままつながり続けることを祈るばかりだ
8年位前、逆流性食道炎が見つかり、それから2年余りだろうか、医師に処方された薬を飲んでいた。沖縄に戻るころにはよくなり、服薬は必要ないということになった。
そんなころ、アロエベラについての情報を得た。健康ということでのアロエとの付き合いは長く、30年余りになる。しかし、長い間、気管支炎対策で、キダチアロエを活用してきたが、ベラについては何も知らなかった。
ベラは、胃酸を抑制する効果があるというのだ。そこで、薬ではなく、ベラを時々食べていた。皮をむいて、中のゼリー状のものを食べるのだ。そして、畑にたくさんベラを育ててきた。
だが、昨年の人間ドックで悪化がわかり、再び服薬ということになった。ベラは、畑で眠る状態が続いた。
そして、先週の検査で、服薬不要にまで改善した。しかし、服薬をやめてはじめて、軽い自覚症状めいたものを感じた。そんな時には、服薬してもいいといわれてはいた。
その時に、ベラを思い出して、食べてみた。すると、効果がすぐにわかるほどに出た。逆流性食道炎の症状と回復具合が自覚できるほどに回復したのだと、まずは思っている。
こんなことで、しばし、ベラと付き合いながら、逆流性食道炎ともつきあおうと思っている。
8年位前、逆流性食道炎が見つかり、それから2年余りだろうか、医師に処方された薬を飲んでいた。沖縄に戻るころにはよくなり、服薬は必要ないということになった。
そんなころ、アロエベラについての情報を得た。健康ということでのアロエとの付き合いは長く、30年余りになる。しかし、長い間、気管支炎対策で、キダチアロエを活用してきたが、ベラについては何も知らなかった。
ベラは、胃酸を抑制する効果があるというのだ。そこで、薬ではなく、ベラを時々食べていた。皮をむいて、中のゼリー状のものを食べるのだ。そして、畑にたくさんベラを育ててきた。
だが、昨年の人間ドックで悪化がわかり、再び服薬ということになった。ベラは、畑で眠る状態が続いた。
そして、先週の検査で、服薬不要にまで改善した。しかし、服薬をやめてはじめて、軽い自覚症状めいたものを感じた。そんな時には、服薬してもいいといわれてはいた。
その時に、ベラを思い出して、食べてみた。すると、効果がすぐにわかるほどに出た。逆流性食道炎の症状と回復具合が自覚できるほどに回復したのだと、まずは思っている。
こんなことで、しばし、ベラと付き合いながら、逆流性食道炎ともつきあおうと思っている。



日本の地域ブログ大集合!津々浦々の美味い・楽しいがここに!
四年ほど前に苗を植える
近所で
近所の農家から
南城市大里庁舎にて
大豊作

ハイビスカス
夏になって、ゴミ量が爆発的増加