プロフィール
浅野誠
浅野誠
1972-73年沖縄大学に勤務
1973-90年琉球大学に勤務
1990-2003年中京大学に勤務
2004年より沖縄生活再開
玉城の絶景のなかで田舎暮らし
自然と人々とつながりつつ人生創造
執筆活動、講演・ワークショップを全国にて行う
沖縄県立看護大学・沖縄リハビリテーション福祉学院で非常勤講師
沖縄大学客員教授 南城市・西原町で、多様な審議会等で委員長などを務める

  最近著
  『沖縄おこし・人生おこしの教育』(アクアコーラル企画)
『<生き方>を創る教育』(大月書店)
『ワークショップガイド』(アクアコーラル企画)
『沖縄 田舎暮らし』(アクアコーラル企画)
  『浅野誠ワークショップシリーズ』
    1.ワークショップの作り方進め方
    2.人間関係を育てる
    3.授業づくり(小中高校)
    4.授業づくり(大学)
    5.人生創造
  6.人間関係・人生創造・世界発見・共同活動創造
 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村 にほんブログ村 地域生活(街) 沖縄ブログ 南城情報へ にほんブログ村 ライフスタイルブログ スローライフへ
にほんブログ村 にほんブログ村 ライフスタイルブログへ
ブログパーツ 無料
オーナーへメッセージ
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 38人
※カテゴリー別のRSSです
QRコード
QRCODE
< 2024年04月 >
S M T W T F S
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

【PR】

  
Posted by TI-DA at

2013年03月24日

わかりやすくアドバイスに満ちた青木省三「ぼくらの中の発達障害」筑摩書房2012年

 いわゆる「自閉症」(「広汎性発達障害」(自閉症スペクトラム障害))を中心に、発達障害についてわかりやすく書かれた本だ。「発達障害」の捉え方をめぐって私が注目した個所をいくつか紹介しよう。

 「「発達障害は治るのですか?」と尋ねられることがある。だが発達障害に「治る」という言葉はふさわしくないように思う。
 第一に、「治る」というのは主に病気に対して使う言葉である。この本を読んでもらったら分かると思うが、僕は発達障害を病気とは考えていない。人の一つの在り方、生き方に近いものと思っている。もちろん、発達障害を持つ人が、二次的に統合失調症などの精神障害を持つようになっている場合には、その二次的な精神障害については「治る」という言葉を使うし、「治ると思う」「治るように頑張りたい」と言うことが多い。
 第二に、発達障害は発達が「障害」されている、即ち、発達しないものだと考えている人がいるが、これは誤っている。発達障害であろうとなかろうと、人は誰でも発達していく。そのスピードと道筋は人によって異なるが、発達障害を持つ人は、周囲の人や環境の応援を得て、その人なりのスピードと道筋をたどり発達していくのである。だから、発達障害は「治す」ものではなくて、その人なりのスピードと道筋で発達していくのを応援するものである、と考えるとよい。
 第三に、発達する方向は、定型発達の人の方向に向かって、というものではない。人には多様な在り方、生き方があり、その入らしいゴールに向かって発達していくように、応援することが求められているのだと、僕は思っている。」P52-3

 「人に対して内面を隠すという「自閉」は定型発達と呼ばれる人の中にあるものであり、逆に広汎性発達障害で「自閉」を持つと言われる人の中にこそ、内面を隠さず人と繋がり情報を伝達する可能性があると、僕には思えてならない。」P74

 「言葉で気持ちや考えをうまく表現できない時、相手の言葉が充分に理解できない時、誰もが広汎性発達障害的となると、僕は思っている。環境次第で、人は誰でも広汎性発達障害的となり得るのではないか?」P87

 「昨今、若者のコミュニケーション能力不足が言われているが、他の世代に比ベコミュニケーション能力が低下しているのではないと、僕は思う。これまではコミュニケーション能力は、それほどは求められてはいなかった。またそれほど持たなくても、揺るぎのない強さの共通理解を持つことができていたのだ。コミュニケーション能力が乏しくなったのではなく、時代の中でコミュニケーション能力がより求められるようになった。そのため、広汎性発達障害の傾向を持つ人をはじめとして、言葉でのコミュニケーションが苦手な人達が、社会の中で生きづらくなり、破綻をきたしやすくなったのではないかと、僕は推察している。」P90-1

 私自身の体験からいっても、なるほどと思える点が多い。「定型発達」の人を含めて同様のことを体験することがごく普通なのだ。だから、タイトルが「ぼくらの中の発達障害」となっているようだ。
 これらの障害の説明だけでなく、対応について書かれているアドバイスが、大変有用だ。それは、「第6章 発達障害を持つ人たちへのアドバイス」「第7章 周囲の人たちへのアドバイス」だ。
 その中の一節を紹介しよう。

 「話す時に心がけたいことをいくつかあげていこう。
①あっさり、はっきり、簡潔に伝える。
 これが基本である。
②くどくならない。問い詰めない。
③早口で、たたみかけるように話さない。
④声が大きすぎないように、強すぎないように気をつける。
 ②③④はそれだけで、「怒られている」「責められている」という感覚を強めることがある。
⑤一度の情報量を多くしない。
⑥複数の感情を混じらせない。例えば、褒める時にはストレートに褒める。
⑦曖昧な多義的な表現や態度をとらない。
 ⑤⑥⑦に気をつけないと、しばしば混乱を招き、時には猜疑的になってしまうことがある。
 又、話を聞く時には、次のようなことを心がけたい。
①相手の話すペースに合わせる。
 基本は、ゆっくりとしたペースである。
 相手の言葉と、自分の言葉との間に、少し「間」ができるくらいがよい。
②相手が話すのを、急かさない。
③相手の話の終わりまで、きちんと聞く。
④受け止めているという、相槌を打つ。」P187-8

 これを読みながら、大学授業での私の話し方聞き方を思い出した。若いころの私は、ここに書かれていることの反対をしていたようだが、近年の話し方聞き方は、こんな風になっているようだ。
 そのためか、おとなしい無口な印象の学生や人前での緊張が激しい学生たちも、授業で彼らなりに話をすることが普通になっている。ゼミだけでなく、50~80人ぐらいの授業でも、2,3回目の授業になると、全員が発言するようになる。20~10年ぐらい前には、こうした話し方聞き方を意識的に追求してきたが、最近は「自然体」でそうなっている。「肩の力が抜けてきた」のか、「肩に力が入るエネルギー過剰状態がなくなってきた」せいかは、まだよくはわからない。

 写真は本文に関係なく、庭のガザニアとナデシコの花
  

Posted by 浅野誠 at 11:54Comments(0)生き方・人生

2013年03月20日

木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?」星海社2012年

 店頭で、タイトルにひかれて購入した。著者は、1977年生まれだから、30代半ばだ。この本は、初版が4月で、私が購入したのは9月刊の7刷だから、結構売れている。
 若い世代がこうしたことに関心をもち、どういう行動をとればいいのかを考えると言う事は、大変意義あることだと私は思う。と同時に、彼らのなかには、苦境状態にあって働き方を変えたいと思っている人が大変多いことを反映しているのだろう。
 こうしたことへの処方箋が書かれるが、その前に次のような一節がある。

 「「いくらがんばっても、いくら稼いでも、結局生活は楽にならず、いつまで経っても苦しいまま」と感じてしまいます。
 そういう人がつぎに考えることは、「ストレスなく生活するためには、どこか山奥か離島にでも移住するしかない」ということです。
 いわゆる「ドロップアウト」ですね。
 いまの生活をすべて捨てて、自給自足的な生活をしなければ「ストレスフリー」の人生は送れない、と感じてしまうのです。
 もちろん、そういう生活もひとつの人生です。しかし、そうするためには、いままでの生活をすべて捨て去る覚悟がなければいけません。再び、いまの生活に戻ってきたいと思っても、かなり難易度は高くなります(少なくとも本人はそう感じるでしょう)。
 となると、よほどの覚悟がなければ、この選択肢を選ぶことはできません。
 「沖縄に住んで、のんびり生活ができたらいいな」と考えていても、「じやあ、家族の生活は?」「仕事はあるの?」「子供の学校は?」「本当に生きていけるのか?」と自問することになります。
 結局、「やっぱり無理」という結論になって、しぶしぶ今まで通りのストレスに満ちた仕事人生を継続していくしか手がありません。
 ですが、本当にそれしか手がないのでしょうか?
 このような「激務かドロップアウトか」「Oか100か」というオール・オア・ナッシング思考ではなく、別の道があるのではないでしょうか?
 ストレスフリーで生きる=俗世間から離れる、という発想をしていると、どうしてもハードルが高くなってしまいますが、現在のように社会のなかでちゃんと働きながら、「自己内利益」を高めていく方法を考えていくべきです。」P209-211

 それまでの「生活を捨て」て、沖縄で田舎暮らしをしている私などは、「俗世間から離れ」「ドロップアウト」して、「0か100か」のいずれかになっている、ということになってしまう。でも、私には「家族の生活」もあるし、「仕事」もある。南城市周辺には、都市から移住してきた人は多い。私のような世代だけでなく、20代、30代、40代という層に、かなり多いのだ。
 こうしたありようが可能であり、かつ多いことを、おそらく著者は知らないのだろう。
 著者の処方箋の基本は以下のように書かれている。

 「要するに何が言いたいのかというと、「世間相場よりもストレスを感じない仕事」を選ぶことができれば、必要経費を下げることができ、その結果、自己内利益を増やすことができるということです。」P220

 こうしたアプローチも、働き方を変える一つといえるかもしれないが、これらの事例については、私の方が知らないのが実情だ。

 写真は、本文に関係なく、我が庭のらせん型ハーブガーデンのナスタチウムの花
  

Posted by 浅野誠 at 11:39Comments(0)生き方・人生

2013年03月19日

「「する」ではなく「いる」」と「なる」 上野圭一・辻信一「スローメディスン」の示唆

 最近、上野圭一・辻信一「スローメディスン」(大月書店2009年)という本を読んだ。共感できるところが多い本だ。
 この本には、「「する」ではなく「いる」」という一節がある。そこには、次のようなことが書かれている。

 「ぼくたちは今、「する」ことに取り憑かれた時代に生きているのではないでしょうか。「する」ことに取り憑かれているとはどういうことか。人間の価値を、いかにうまく「する」かで決めるということです。現代社会のキーワードである競争や効率や生産性も、いかによりよく「する」か、より早く「する」か、にかかっています。なぜより早く「する」ことが重要かといえば、より多く「する」必要があり、より多くの結果を出さなければならないから。」P127-8

 「人間の存在はやっぱり「いる」なんです。ぼくらは動物ですし、「する」ことは一種の宿命のようなもので、いつも何かしていなかったら生きていけない存在なわけです。さらにいえば、この「いる」と「する」は人間の本質的な両面で、要は、その間にどうバランスをとるか、なんだと思います。さっきも言ったように、病や老いとは「することができなくなること」だと定義できる。病が癒えると、また「することができる」状態にもどっていくのですが、老いは不可逆的にだんだんできなくなっていって、「する」が減っていって、最後に死を迎える。死とはまったく「する」ことができない、いわば「する」ゼロ状態のことですよね。「する」に取り憑かれた社会、「する」ことだけで人の価値を決める社会――ぼくは「するする社会」と呼んでいるんですが――では、「病なんてさっさと治して、またできる(する)ようになれ」ということを要求されますし、老いに対しても、「え、そんなことさえできないの?」というぐあいに、否定的にとらえるしかない。そして死も完全に無能な状態として否定的にとらえれば、無価値、無意味ですよね。」P128-9

 「どうして「する」に取り憑かれる人ばかり出てくるのでしょうね。それがぼくにはわからない。その仕組みから降りることは、誰にでもできると思うんです。事実、やってきた人もたくさんいます。ぼくも降りてきた。」P130

 「健全であり健常であり健康であるということがかえって、ぼくたちを逆に「する」ことに取り憑かれやすく、システムにとりこまれやすくしているのかもしれない。若いときは、寝る時間も惜しんでバリバリ働いたりして、いくらでも、何でもできるような気になっている人が多いじゃないですか。子どもに対しても、「強くあれ」、「がんばれ」「なんにでも挑戦しろ」、「あきらめずにやりつづけろ」というふうにずっと駆り立てていく。でも病気になると、「ちょっと待てよ」とふと我に返るわけです。病気のときは「する」ことが制限されて、「いる」しかなくなる。「人間は何のために生きているんだっけ」と思わされる瞬間です。あるいは、自分の子どもがかなり重い病気や怪我になったとき、「この子が生きてさえいてくれれば、他は何も望まない」と思えたりする。」P131

 私は、こうした主張におおいに共感する。「する」は確かに必要ではあるが、現在は、「する」過剰であり、「する」が「いる」を過剰支配しているように思われる。働き過ぎ、ワーカーホリックはそのあらわれだろう。その結果、「いる」の価値が過剰に低められているのではなかろうか。
 ところで、「する」には、目標や計画を立てて、目標実現に向けて作業過程を綿密に管理して展開するものが多いが、それだけではない。そうした目標や計画なしに「する」ものが結構ありはしないだろうか。流れの中で、いろいろなモノ・コト・ヒトに出会いながら、その場の状況のなかで「する」ものが色々とある。その際には、思いもしなかった出会い発見創造があるだろう。そうしたものが蓄積していく中で、「なる」と言う形で、なにかが生まれる、できてしまう、という事が結構ある。
 計画的な「する」ばかりしていると、想定外にでてきた「なる」モノ・コト・ヒトの豊かさを見失う事があるだろう。その意味で、「なる」「なってしまう」というものも大切にしたい。

写真は本文に関係なく、我が家とタマグスクを、南側から見る。遠くからでも、我が家のブーゲンビリアが目立つようになった。山の一番高いところがタマグスク。
  

Posted by 浅野誠 at 06:24Comments(0)生き方・人生

2013年03月16日

帯津良一さんの壮大で勇ましい死生観

 貝原益軒の「養生訓」を紹介コメントした帯津さん本のなかに、次のような一節がある。

「ここで語られている養生とは、身体を労り、病を未然に防いで天寿を全うするという、どちらかと言えば消極的で守りの養生である。
 しかしこの考え方は、あくまでも身体を対象とするもので、死を以て終われりとするところが私には物足りない。これからの養生は焦点を身体から生命に移し、生命のエネルギーを日々高めていって、死ぬ日を最高のレベルにもっていき、その勢いて死後の世界へ突入する。それまでには虚空へ還るための準備期間であり、地上エネルギーを充填した我々は、また百五十億年の彼方へと旅立つ。それが「死」なのだと思う。こうした死を前にして、クライマックスともいえる現在の生命の躍動が待っているのだ。こう考えると楽しくなるではないか。」(帯津良一編著「図解雑学 養生訓」ナツメ社2012年P22)
 この考え方は、帯津良一「死を思い、よりよく生きる」(廣済堂2007年)に、より詳しく述べられている。

 私は、「アンチエイジング」「若さを保つ」「不老長寿」「病と闘う」といった、よく言われる考え方を好まない。引用の冒頭にあるような貝原の考え方の方に馴染みを感じる。
 帯津さんは、それを「超えて」壮大かつ勇ましく述べている。現在の私は、それに距離を感じる。それにしても、「死」について自分なりの考えを持つようにしなくてはならないと思う。その際、いたずらに死を敵対視し、恐怖をあおるような発想は避けたい。その点では、帯津さんの考えは参考になる。

 写真は本文に関係なく、我が庭の花
  

Posted by 浅野誠 at 11:56Comments(0)生き方・人生

2013年03月13日

中間まとめ 若者の試行錯誤物語19

 18回の連載を区切ることにする。
 この連載の前には、2007年に当時のホームページに書き、新ホームページに「若者の生き方シリーズ4若者の人生創造」としてこの1月に再掲載した5つの事例がある。
 これらは、大学教師として学生たちと付き合い、卒業後の姿に継続的に触れる経験をもとに描いたものだ。今回のシリーズの最初に書いたように、特定の誰かを描いたのではなく、いろいろな出会いを元に、ミックスして描いたものだ。それらは、大半が1990年以降最近に至る出会いによるもので、彼らは現在20~40歳になる。
 もっぱら若者自身の立場になって書いた。振り返って思うと、それぞれの学生・卒業生には、私なりに相談に応じたり、アドバイスなどをしたりしてきたが、それらは書かなかった。そうしたことを書くのも一つのありようだなとは思う。次回は検討してみたい。

 対象となった学生たちの時代は、若者たちの人生のありよう・人生創造・人生おこしのありようが大きく変化した時期だ。そのことが、個々の事例にも反映しているようにも思える。
 こうしたことを振り返って、私なりの考えを深めてみる作業も必要だと思う。おりしも、日本生活指導学会の今年の大会では、大学生をめぐるこうした動向・それに対する大学教師の関わり方を研究討論しようというアイデアが浮上している。
 その議論に、この連載経験を踏まえて私なりの関わりができれば、と願っている。
 
 最近では、大学での教師―学生という付き合いとは異なる形で出会う若者が増えてきた。近隣の方、何かの集まりで出会い、その後もしばしば出会う方たちだ。沖縄県での大学進学率は約30%なので、大学進学以外で多様な人生創造をしている人が、私の周辺でも多い。あるいは、20代になってから遠方から近隣へと移住されてきた方に出会う機会も増えてきた。
 そんな多様な方々の「若者の人生創造物語」が書けるように、付き合いを広げ深めていきたい。

写真は本文には関係なく、我が畑のバジルの仲間
  

Posted by 浅野誠 at 19:11Comments(0)生き方・人生

2013年03月09日

地元か沖縄かで進路を迷う耕太(続)  若者の試行錯誤物語18 

 耕太は、その後も「地味」な大学生活を続ける。学業成績は『低空飛行』であったが。
 転機は、1年から2年に進級する春休みだった。サークルメンバーで、サンシンを楽しむウチナーンチュ学生に誘われて、サンシン教室お試し練習会に参加したことが、大きな転機になった。即座にはまって、週2回の練習に通う。合成革で安価なものだが、サンシンも購入した。さらに若者たちに人気の若者民謡歌手のライブにも出かけた。
 ある時、教室の仲間から、地元のエイサーを見に来ないか誘われ、出かけた。その青年会は、人数不足なので、「助けてくれ」といわれ、1ケ月だけということで、青年会エイサー臨時メンバーになった。そのため、帰郷日程が大幅短縮になって、親から叱られたが、耕太の元気な様子を感じて許してもらえた。
 踊りはうまくもないが、そこそこに付き合えた。太鼓をもって踊るのに、最初は体力不足を感じたが、そのうちに慣れてきた。
 無事、エイサー行事を終えたが、耕太にとっては、そこで、付き合う女性ができたのが、最大の「収穫」だった。軽音楽のサークルの仲間から、ネクラな耕太がネアカになったといわれるほど、性格が変わった。
 こうやって、沖縄習慣、沖縄文化に馴染み始め、2年生後期になると、沖縄に関連する授業をいくつか受講し、3年での専門ゼミでは、「沖縄の地場産業」をテーマとする教員のゼミを受講した。
 そのなかで、卒業してもこのまま沖縄で就職しようかとさえ考えた。しかし、親が猛烈に反対し、結局、親の紹介で、地元の事務系の職についた。

 就職したものの、鬱々とした気分が続き、「沖縄恋しさ」の気持ちが強くなる。一時明るくなった耕太が暗くなってきたので、親も心配し始めた。耕太は、親に「沖縄に行かせてくれ」と嘆願し、1年後沖縄に戻ってきた。「沖縄の地場産業」に関わる卒業論文で調査対象にした個人経営の社長が、耕太を試験的に働かせてくれた。魚が水をえたかのように、働き始めた。事務能力はそこそこにあったので、事務系の業務を中心に仕事したが、必要に応じて、営業的な仕事もする。
 そんななか、前の彼女と別れて2年もたって寂しい思いが募る中、新しい彼女が、仕事を通じてできた。仕事での出会い、大学時代との旧友、そして、彼女との語り合いのなか、沖縄に長くいようかな、場合によっては永住しようかな、という気分になってきた。会社での仕事も認められ、翌年正社員ということになった。といっても10人足らずの会社であったが。
 そんななか、沖縄で就職し何年もたっている人のなかには、本土に居る親を呼び寄せる例があることを聞く。たとえば医療関連の専門職は、人出不足なのでインターネットサイトで看護師などの専門職を募集する病院が結構あり、それに応募して、まずは1年間ということで沖縄に来ることが結構あるという。そうした人には、そのまま沖縄で仕事を続け、ウチナーンチュと結婚する例も見かけるとのことだ。そして、定年間近な親が、沖縄に遊びに来て、沖縄生活が「あっている」と感じ、定年を早めて沖縄移住する例もあるという。中には、2世代住宅を建てることさえある。
 こんな話を聞くと、耕太は、自分も将来そんな風になるのかな、と思ったりもする。だが、まだ20代半ばなので、先のことはわからない、というのが正直なところだ。

我が家ベランダからの夕陽 八重瀬公園あたりに沈む 3月3日撮影
  

Posted by 浅野誠 at 06:28Comments(0)生き方・人生

2013年03月01日

進学実績をあげたい高校のすすめで国公立大学に入学した耕太 若者の試行錯誤物語17

 耕太は、西日本の小都市で生まれ育ち、地元の進学校に通った。信用金庫に勤める父、地元企業の会計を担当する母は、ともかくきちんとした職につけるような進路を耕太に願った。地味で堅実な家庭だった。耕太の進路希望は、おおよそで文系というぐらいで、特別な職業イメージはなかった。我が家は「地味で堅実すぎる」とは思うが、「派手な」進路がイメージできるというわけでもなかった。
 学校の進路指導は、国公立大学への進路実績を高めることに力をいれており、まずは県内の、無理なら近隣県の合格可能性のある国公立大学の受験を勧誘するのが基本方針だった。とくに合格数実績をあげるために、『穴場』国公立大学の受験を強くすすめた。その大学に進学するかどうかは別にして、ともかく受験を強烈にすすめた。
 耕太の大学センターテストは、地元国公立大学合格可能性は低く、隣接県では沖縄の大学が候補に絞られ、強力に勧誘された。他にも多くの生徒が沖縄の国公立大学受験を勧誘され、約30名が「団体旅行」で沖縄受験に向かった。
 耕太は、他にも私立3校と後期日程の国公立1校を受けた。結果は、私立1校と沖縄の国公立1校が合格で、高校側は、国公立への進学を強く進めた。耕太も親もそれを受け入れて入学し、沖縄にやってきた。
 耕太が沖縄にくるのは、修学旅行と受験の時の二回だけで、沖縄生活のイメージはゼロに近かった。民間アパート生活が始まる。これまでは親の世話、学校の世話ですべて動いてきた感じだったので、落ち着かない生活ではあったが、耕太が入学した大学には、同じ高校の先輩が10名近くおり、同級生も親しかったわけではないにしても2人いて、彼らがまずは頼りであった。

 ゴールデンウィーク明けころになると、大学生活に慣れてきたというか、気の緩みというか、それまでに無かった、授業での遅刻欠席を時々するようになった。寝坊がきっかけではあるが、高校時代までは家族が何かと声をかけてくれ、食事用意などをしてくれたが、そうしたことがなくなって、家事的なことに面倒くささを感じ、インスタント食品かコンビニ弁当のようなものに頼るようになった。
 4月は毎晩のように自宅に電話していたが、それも面倒になり、電話をかけないので、親からお叱りの電話が来るようになった。
 何か「気分を変えなくては」と思って、入ろうかどうしようか迷っていた音楽サークルに入ることにした。週2回ぐらいの練習と、年に一回演奏会を開くだけという「お手軽の」軽音楽系のサークルだ。実に気楽で、練習よりおしゃべりの方が多いという感じだ。サークル室はたまり場という感じで、耕太にとって結構有用な情報が入ってきた。授業との付き合い方、単位を要領よく取る方法なども教えてくれた。酒を飲むことも、ここで鍛えられた。部員のなかには「オタク」っぽいのが多そうな印象をもったが、耕太自身も「オタク」っぽいのかな、ともここで改めて「自覚」した。とくに無名に近い音楽グループの演奏を追っかけているなどはそうかな、とも思った。そんなことで、部員たちには共通性を感じ、サークル室は自分の「居場所」のように感じもした。興味がわかない授業のとき、ここに居ておしゃべりすることが増えてきた。

 前期の授業成績は、良い成績とはいえなかったが、「フツー」に単位取得はできていた。ただ、1年生必修の大学入門ゼミが不可になってしまった。時々欠席したし、順に回ってくる発表がいい加減過ぎたようだ。ゼミでの発言も順に回ってくる時以外は発言しないし、ゼミでの存在感は限りなくゼロに近かった結果だろうと、自分でも思った。
 (続く)


写真は本文に関係なく、洋蘭博覧会で撮影したもの
  

Posted by 浅野誠 at 11:54Comments(0)生き方・人生

2013年02月22日

子ども会ジュニアリーダーから高校教師へと歩む進司 若者の試行錯誤物語16

 進司は、中学生高校生時代、子ども会のジュニア・リーダーとして活躍してきた。人なつっこく柔らかな雰囲気が、子どもたちに、そして同じジュニア・リーダー達にもすごく好感がもたれてきた。進司自身も、そんなありようがとても好きだった。そして、いろんな参加者が集まって、一緒になって何かを作るような、お祭り的イベントが大好きだった。
 それでも、大学選びになったら、もう少し世の中の事を知らないといけないと考え、社会科学系の学部に進学した。大学入学後も、子ども会、そしてジュニア・リーダー達とのつきあいを続け、良き先輩生活を楽しんでいた。だが、座学よりも出歩いて学ぶことが好きだったので、大学での学習はそれほど楽しいものではなかった。

 大学では、教職を履修した。それらの科目が座学だけでなく、実学的な面をもっていたので、少しは楽しめた。社会科系の教職科目を受講していたのだが、教科を越えて、芸術・数学・国語・英語・体育といった多様な専攻学生が集まる教職ゼミは、かなり楽しめた。ゼミで、遠くの小学校現場に出かけて、子どもたちと遊び語らう企画はとくに充実感を持った。いつもの社会科教職科目とは異なる世界にこのゼミで出会ったのだ。
 なかには、大学近くの学童クラブで指導員のアルバイトをしているものがいて、その話は面白かった。学童指導員を将来進路選択の有力候補にしているものもいた。給与は低いが、充実感が高そうな印象だった。教職の方は、一定の給与水準があるし、安定した仕事という点では魅力的だったが、中学高校の社会科関係就職は、天文学的数字であることを聞いて、気持ちが萎える思いだった。ゼミにはゼミ卒業生が来て話をしてくれることがあった。その先輩は、進司と同じ学部だったが、社会科教師を断念して、通信教育で取った免許で小学校教員になっていた。

 こんな風にして3年から4年へと進級していくが、他の大半の学生がしている就職活動は全くしなかった。それでも、4年の夏になると、少々焦り始める。だが、どうも勉強不足を感じていたので、大学院でもいくか、などと考え始め、指導教員に相談した。
 指導教員は、座学嫌いの進司の大学院進学相談にびっくりしたが、進司の子どもにかかわる実践的な研究ということに対応してくれる大学院の名前をいくつか紹介した。行動力ではずば抜けている進司は、直ちに候補先大学院を調べる。一つの大学院はかなり遠方にあるのだが、興味を感じて直接出かけてみる。
 大学院入学試験は、9月終わりだというので、「だめもと」で受験手続をする。実に不思議なことが起こるものだ。研究計画書をもとにした面接試験で、複数の面接官に高い評価を受けて、合格ということになる。語学や専門知識の方は、入学前にうんと勉強するようにという宿題付きだったが。

 大学院入学後も、子どもや若者が活動する現場に、次から次へと訪問し、先進的実践を展開している指導者や学校教員と懇意になり、研究会や学会にも参加する。そのなかで、質の高い実践を見つけ、その方向で進路を切り開くことを目標とする。
 しかし、難関は「予想通り」修士論文だった。質の高い実践を分析するのだが、文章能力がそれほどない。結局は、2年では終了せず、3年かけてやっとのことで書き上げる。教員たちからは、ブルドーザーのような論文といわれてしまった。

 修士を終えて、仕事をどうするか。行動力のある進司だから、顔が広い。20~30人の知人に相談の手紙・メールを送ったり電話したりする。そうするうちに、地元の私立高校での非常勤講師の声がかかり、そこでの教師生活が始まる。
 「型破りの教師」ということで、何人かの教師には叱られてばかりだったが、進司の型破りさが、生徒たちを前向きにするうえで、よい刺激になるという教師たちもいた。生徒たちからは、最初はびっくりされたが、一ケ月もしないうちに人気教師になっている。どちらかというと、教師を含め大人を悩ませてきた生徒たちだが、そんな生徒たちを「問題扱い」せず、むしろ「元気があり、創造的だ」といって、前向きに見る進司は、生徒に強いインパクトを与えたのだった。とくに学園祭企画で、そうした生徒に出番を作り活躍させたことが大きな話題になった。
 進司に翌年も継続させるかどうかは、教員・管理職間で大きな議論を呼んだ。生徒たちの人気、生徒募集の点なども考えると、むしろ大きなプラスだという判断になってきて、雇度めするどころか、逆に専任として採用することになった。物語は続くが、別に機会にしよう。

 写真は本文に関係なく、洋蘭博覧会で撮影。
  

Posted by 浅野誠 at 19:23Comments(0)生き方・人生

2013年02月16日

実践的タイプの英語教師の道へと進む華麗  若者の試行錯誤物語15

 英語スピーチコンテストの実績などもあって、華麗は、通学した高校がある大都市の近郊の大学国際英語学科に推薦入学した。最初のうちは叔母の家から通ったが、1年生の半ばからアパートを借りて通学した。
 その大学は文系中心だが、たくさんの学部学科があり、全国からも学生が集まっており、出会いが結構楽しかった。華麗はアジア文化研究会というサークルに入り、アジアからの留学生たちとの交流を楽しんだ。1年から2年になる時、大学が企画するシンガポール語学研修1ケ月プログラムに参加したが、そのプログラムでは、サークルで出会うアジア学生以上に多様な地域の学生たちとの出会いがあった。
 そんな経験がきっかけになり、せっせとアルバイトをして稼いだお金で、アジア旅行を何回もした。どちらかというと滞在体験型で、現地でのボランティア活動にも参加した。こうした経験のなかで、華麗の英語力は、受験高校から進学してくるタイプの学生とは一味も二味も異なる実践英語で、他の学生から一目置かれるだけでなく、大学教員からも注目された。

 大学では教職課程を受講し、英語の教員免許を取得しようとしていた。教職科目の中に、いろいろな教科の免許取得を目指す学生たちが集まる教職ゼミがあった。ここでも華麗は多様な個性・生き方をする学生たちと出会い、世界をまたまた広げた。
 教育実習は、母校商業科で行ったが、英語教科の実習生が他にいない事もあるし、担当教員が高校時代の恩師という事もあって、鍛え抜かれつつも充実したものだった。
 実習があるまでは、海外とかかわる仕事に就こうかと考え、NPOやNGOともつながりを広げていた。しかし、実習体験の強烈な印象もあって、教員就職の方向へと舵を切った。

 卒業後2年間、公立中学校で臨時教員をした。ここでは、高校時代の体験よりは、ほんの一時期在学した最初の高校体験に近いもので、苦労したが、こんな学校でも「一陣の風」でも吹かせられるような教師になりたいと思った。
 とはいっても、他の若い教師同様、苦渋に近い教師生活だったし、公立学校の採用試験も失敗を続けていた。そして、再び別の進路を検討し始めた2年目の後半、母校の高校から、英語教員を務めないか、という誘いを突然受けた。
 いろいろと迷ったが、3年目は、臨時の形で母校で教えることになった。再び充実した生活を取り戻していく。そして、若いにもかかわらず、というか、若いからこそできる事を展開し、学校・教師たちの信頼を広げていった。問題を抱え、苦労する生徒たちを受け止める役割をとったり、多様な行事や企画に取り組んだりした。 英語教師というより、生徒たちの相談役的な仕事、生活指導的な仕事で注目された。そうした仕事のなかで、自信をなくしていた生徒達に自信を取り戻させ、退学しそうな生徒を引きとめたりしていた。
 ということで、翌年から専任として採用されることとなった。


 写真は本文に関係なく、洋蘭博覧会で撮影。
  

Posted by 浅野誠 at 06:28Comments(0)生き方・人生

2013年02月12日

管理主義によって排除されるなかで、逆に成長する華麗の模索1  若者の試行錯誤物語14

 華麗は、農村地区といっていい中学から、校則が厳しいことで評判で、都市近郊にある県立高校普通科に入学した。自宅から近いこともあるし、同じ中学からの同級生も多いこともあり、ごくありきたりの選択でもあった。この高校は1980年代に新設された学校で、当時の新設校の多くは生徒を厳しく躾けることで、学校の評判を確保しようとしたのだが、20年たってもその名残があった。
 小中学校でも家庭でも、伸び伸びとゆったりと育った華麗は、そんな高校に馴染むのに少しは心配したが、その後の思わぬ展開は、本人も親も想像すらできるものではなかった。
 最初の「事件」は、遅刻から始まった。4月そうそうの話。通学バスが遅れたために遅刻した時、生徒指導室で注意を受け、「反省書」を書く校則であるが、『バスが遅れたから仕方がないのではないか』と担当教員に話したら、「口答えをした」というので、「反省書」をさらにもう一枚書くことになった。
 5月になると、服装検査があり、スカート丈が規則違反だと注意を受けた。他の生徒も同じようなものであったが、遅刻事件のことで目をつけられていた華麗がまずは『摘発』された形となった。親も呼び出され、謹慎処分となった。その後も、似たようなことで、処分を2度受け、6月には、『自主退学』を勧告されるまでに至った。
 話を聞いた、母の妹である叔母も驚いていた。華麗自身も、この学校に通い続ける気力が萎えていた。

 隣の県の大都市に住んで、自営業を営む叔母が、自分の家から私立高校に通わせる申し出をしてくれた。華麗と親はそれを「渡りに船」と乗った。といっても、通える私立高校普通科は、空き定員がなく、商業科に入ることになった。形は、転校ということになった。
 ほとんどが女子生徒で占められた商業科で、勉強漬けというわけではなく、社会の様々なことを学ぶことが興味深かった。叔母の自営業を時々手伝ったりすることもあって、商業科目には関心がもてた。
 華麗が好きな科目は英語だった。中学の時の外国人教師が、ゲーム感覚の楽しい授業をしたし、いくつかの国の事情の話が面白かった。日本とは別の発想の世界があることに興味をもった。そんな刺激で、英語学習をよくしたし、ラジオ英会話などもよく聞いていた。
 高校でも、英語成績は図抜けてよく、スピーチコンテストにも参加し、私立高校の大会に学校代表で優秀な成績を取ったこともあった。
 こうして、高校生活の思わぬスタートが転換し、華麗としてはかなり充実したものとなった。

 叔母の家では、家事や家業の手伝いを、短時間ではあったがした。そこで、自営業で積極的にテキパキと働く叔母の姿を見ることの刺激は大きかった。華麗は、都市の大人社会での人間関係のなかで積極的に動くありようを学んだともいえる。それまでののんびりとした動きが少々早いテンポになるとともに、今まで以上に、自分の考え・意思を持ち、それらを押し出していくありようを身に付けた。
 高校入学以来の体験、とくにそれを乗り切ってきたことは、のちのちの華麗にとって大きな自信となっていくのだった。


 写真は本文に関係なく、洋蘭博覧会で撮影
  

Posted by 浅野誠 at 06:40Comments(0)生き方・人生

2013年02月08日

東京でのIT関連職を辞めて帰沖し、医療関係職を目指す弦司 若者の試行錯誤物語13

 弦司は、大学の情報系学科に属していた。当初、新設されてまもない「情報」科を担当する高校教員を希望していたが、採用枠が大変限られているため、首都圏のIT関連会社に就職し、ソフト開発業務に従事した。
 業務は、かなり専門的なものでやりがいがあるが、納期が厳しく期限が迫ると12時過ぎの帰宅―早朝出勤、ないしは泊まり込みが連続することも珍しくなかった。3年目に入るころに担当した仕事でちょっとしたミスをしたことを上司に叱責された事が、一つのきっかけになり、鬱状態になった。職場近くのクリニックで、休養が必要だといわれたが、職場状況のなかでは、事態の改善とか休職とかを言いだせる条件はなかった。
 ある日、起床することもできずに、無断欠勤してアパートに閉じこもった。携帯などでの連絡も無視して寝ていた所、同僚が訪問してきた。同僚は上司の勤務継続意思の有無を問いただす言葉を伝えるだけだった。この日までの業務成績の低下をみて、「見放されている」ことを弦司は感じた。
 自宅に電話して、しばらく会社を休んで自宅で過ごすことを親に伝えた。会社には、退職手続きを取った。手元には、600万円ほどの預金が残っていた。
 帰沖してしばらくボケーっとした生活をしていた。時々、同級生と会ったりして、沖縄でのIT業界の様子を聴いたりした。弦司のように、首都圏のIT関連で働いていて、数年で帰沖したものが何人かいることも聞いた。親も、弦司の様子が「普通ではない」ことに気づき、休んでいることにしばらく何も言わなかった。

 半年ぐらいして、IT関連で起業した知人の業務を週20時間程度のアルバイトで手伝ったりした。しかし、そのなかでもIT関連業務への熱が冷めている自分に気付いていた。ハローワークにも行ったりしたが、求人はあるが、かつての会社の業務と似たりよったりで、腰が引けた。高校の「情報」教員になっている先輩の話も聞いた。先輩も同様に、首都圏のIT関連会社で働いていたのをやめた経験を持っている。弦司は、教職への再挑戦を考えないでもなかったが、採用がゼロに近い状態だったので、高倍率をくぐりぬけて頑張るほどの気力はなかった。
 精神的に落ち込んだ経験しただけに、たまたま目にした、そうした人をサポートする職業に直結する専門学校の案内が気になった。IT関連業務とは異なって、人間相手であることにもひかれたのだ。そうした仕事には、カウンセラーとかソーシャルワーカーのような仕事と、検査技師とか理学療法士などの医療専門職とかがあった。二つほど専門学校のオープンキャンパスにも出かけた。医療系専門学校は300~500万円という授業料が必要だが、預金でなんとかなることは好都合だった。
 こうして、28歳の春、弦司はある医療系専門学校に入学した。入学してみると、高校新卒生が多いのだが、弦司のように職場体験をもつ人も結構いた。なかには40代の人さえいた。その多様な年齢集団が、弦司に心地よさを与えてくれた。

 学業は、専門職養成だけあってなかなか厳しく、卒業時点での国家試験合格が目標となっていた。上級生には、退学留年など途中挫折の例も多そうだった。それでも、弦司は比較的近い年齢の5人の仲間ができて、励ましあい慰め合う関係ができたのを心強く感じた。
 医療知識の習得は、IT学習と似て、モノコト相手であり、これまでの自分の学習スタイルに合っていることを感じつつも、ヒト相手の学習が少ないことに物足りなさを感じた。そのなかで、患者への対応など人間関係を扱う授業には興味が持てた。また、1年後期からの施設訪問、2年からの短期実習などは、自分の将来を考えるうえで刺激になった。
 そんな中で、医療施設のなかでは、できるだけ患者をモノコトではなくヒトとして扱うところで働きたいと思うようになっていた。
 (この話も、いつか続論を書きたい)

 写真は本文に関係なく、洋蘭博覧会で撮影
  

Posted by 浅野誠 at 06:48Comments(0)生き方・人生

2013年02月04日

ベテランが管理職ではなく、専門職ベテランが管理職若手を応援する仕組み

 ベテランが管理職になる形が多いと言っても、すべてではない。周りを見回すと、若手中堅が管理職になり、ベテランがそれを支える事例が結構ある。30代40代経営者を50代60代ベテランが知恵と経験で支えるなどといった例はいろいろなところで見られる。
 2010年9月、フィンランドで経済研究者に同行した、起業支援センターでのインタビューでのことだ。インタビュー相手の方は、「管理職は一番若いのにやらせているのだ」と語り、自分は業務の第一線で、起業支援にあたっているという。とても興味深く感じた。「管理職が偉い」というイメージがない。むしろ、面倒で大変だし、それに教育のために若手に管理職をさせている、といった感じでさえある。
 そうした事例は、日本でもありそうだ。体力と気力がみなぎる30代(40代前半も含まれるかもしれない)が管理的業務を行い、経験と知恵がみなぎるベテランがそれを支えるような体制をとればいいのである。そういう体制をとれば、体力的に下がってくる40代後半以降、早期退職に追い込まれるのではなく、60代、さらには70代まで、業務を継続できるだろう。
 そのためには、業務、とくに重要事項の遂行にあたって、世代を越えた合意システムを作る必要があるだろう。中堅若手が管理的業務を取る場合に、ワンマン的色彩が強くなるケースを見かけるが、世代間協同型合意型を築きあげることが必要だろう。それはピラミッド型組織ではない。
 NPO組織、地域組織などは、そうしたものがふさわしいし、会社組織などもそうしたありようがあってよいだろう。合意型だと、機動力が弱くなると心配されるかもしれないが、合意で決めた基本方針に基づいて、機動力を発揮すればよい。
 またそのためには、管理職が一番偉く、高い名誉を与えられるというとらえ方を、社会的に卒業する必要がある。男性のなかには、40代50代になって管理職でないと恥ずかしいという発想がみられるが、そういう発想から卒業したい。

 1999年前後、カナダに在住し、各地の学校を訪問したが、校長は、日本のようにほぼ50代に限定されるのではなく、30代から50代まで多様な世代がいた。そして、たとえばトロントの重要校の校長は40歳ぐらいで、管理職として立派な校長室にいるのではなく、玄関近くの事務室に隣り合った部屋にいて、日常業務を先頭にたってやっていた。難問を抱えた生徒への対応が、担任から管理職に任され、必要な対応を校長がしていたのに出会ったことがある。専門職としての担任たちが授業などの実践が上手くできるように支えるのだ。そういう校長は、体力気力が必要だ。そして、日本のように2~3年で転勤するのではなく、少なくとも数年、たいていは10年という長期にわたって、同一校に勤続していた。
 私が1990年代から2000年代初頭まで勤務していた中京大学教養部では、教養部長は平均年齢以下の40代が就任することが多かった。余談だが、管理職になりたくない私は、そうならないようにいろいろと「工夫」した。なかには、助教授のままで教授にならないようにしていた人も結構いた。

 こんなありようを、意識的に採用して言ってはどうだろうか。高齢社会には、そういうありようがよりふさわしいと思うし、そうすれば、70代も十分に働け、高齢社会のイメージが変わるだろう。



 久米島のフクギ並木
  

Posted by 浅野誠 at 19:25Comments(0)生き方・人生

2013年02月02日

臨時教員になった溢美の苦戦 若者の試行錯誤物語12

 大学としては早目で2年から始まる専門ゼミは、日本の中世文学を専門とする教員を溢美は選んだ。毎回のゼミは、中世文学についての問題提起書を読みながら、それについてゼミ生が順にコメントする形で進行していった。最初の学生コメントに対して、「感想ではダメで、感想を越えて、論拠をはっきりさせつつ何かの提起をしなさい」と指示された。ゼミ生の多くが少々困ったが、溢美もそうだった。本を読むと、「なるほど、なるほど」と思い、その内容の主ポイントを記憶するという形の学習スタイルに馴染んできたので、「提起せよ」といわれると立ち止ってしまう。その後のゼミ生の何人かも、感想レベルで苦戦した。
 ともかくじっと耐えつつ参加していったが、興味がわいて楽しいというより、苦痛のゼミになった。

 教職科目も2年になると、多少なりとも実践に近い授業があり、聴いて覚えるだけの対応では済まず、中学高校国語科目にかかわって、グループで模擬授業めいたことをする、といった共同作業が求められた。学籍番号順で構成されたグループでの作業は、親しい人がいるわけではなく、淡々と進行していく感じだった。溢美のグループでもっとも積極的な比佐美が、自分の関心を中心にして進めていった。溢美は、「助かるな」という気持ちで、比佐美が考えた分担の仕事をそつなくこなした。発問設定と、授業構成のところが難題だったが、比佐美のアイデアで進んでいき、溢美のグループは「まあまあ」で終えることができた。
 3年、4年と進級していくが、溢美はたいていの科目を優か良かの成績で単位取得し、選択制の卒論は、苦戦しそうなので書かないことにした。4年になっての最大の心配ごとは教育実習だったが、母校の高校でした。自分の高校時代のイメージの授業で、「そつなく」こなせたと自分では感じ、これなら教師の仕事はできる、と思った。
 7月の教員採用試験では、一次パスしたが、8月の面接やミニ授業などの二次では、うまくいかなかった。それを反省材料に翌年はなんとかしたいと思っていた。

 卒業後、直ちに1年任期の臨時教員の職を実業高校で得ることができ、喜んで赴任した。しかし、私語や居眠りがたくさんの授業での苦戦以上に、学級経営で大きな苦労にぶつかった。自分自身、そうした活動経験が少なく、頼りたい副担任は専任教員だったが、存在感がなく、ほとんどが溢美任せだった。球技大会で、クラスに勢いが出ずに、散々な結果になる。
 5月終わりには体調不良状態がでてくる。同じように臨時教員をしていた比佐美の声掛けが唯一の救いであった。
 7月の採用試験は準備する余裕がなく、一次試験ですでに失敗となってしまった。気持ちが落ち込み、先の見通しが見えない状態だった。夏休みが休養、気分転換になると思ったが、一次不合格通知もあり、落ち込みから抜け出せず、以降続けられるかどうか、自信喪失状態のまま、9月を迎える。

 この後は、溢美はどうしていくのだろう。その話は、次の機会にしたい。




写真は、本文に関係なく、我が庭のサンダンカ
  

Posted by 浅野誠 at 19:20Comments(0)生き方・人生

2013年01月29日

ベテランが年功序列式に管理職になることをめぐって

 会社や組織で長年経験を積み上げてきたベテランが管理職を務め、中堅若手がそのもとで働くというスタイルが、通常であると、余りにも思いこまれているのではないか。
 大企業や行政機関などでは、そうしたスタイルが広く見られ、年功序列秩序と結びあっているようだ。さらに、それが給与額ともつながる。また、社会的地位とか名誉とかにも連結することが多い。
 政治家のなかでも、そうしたスタイルが結構残っており、当選回数がもの言うことも多そうだ。町内会や自治会などでも、そうしたスタイルが多いかもしれない。中学高校大学などの学生生徒組織でもその傾向が強い。部活の先輩後輩関係などはその典型だろう。
 ベテランの方が、経験をもとに物事や人間関係によく通じているだろうし、それがリーダーシップを発揮することにつながるだろう、というわけだ。そういうことではなく、長幼秩序ないしは「敬老の精神」で、年齢が上というだけで、管理職・リーダー的役割を任されるということもありそうだ。
 大学などでも、こうした要素が結構ある。学長・学部長就任の際にも、さらには教授―准教授―講師―助教などの職階にもそれが現れる。講座制がきっちり存在していた時代、研究実力が教授より助教授の方が高い時に、いろいろな問題が陰で生じる話はよく聞いたものだ。研究的に先細りが予測できる教授が「居場所」を求めて学部長になりたがる事例さえ耳にした。
 
 こんな慣習があるところでは、管理職は50代をピークに、40代後半から60代に集中する。
 ところで、この年齢時期の人たち、とくに男性に健康問題が大量発生している。また近年話題になる自殺にしてもそうだ。それは、この時期の人たちに、仕事上のストレスが集中しやすいこととからんでいるだろう。そして、そのストレスは、管理的業務の多さとからむだろう。管理的業務が多くなると、時間外業務が増えるなども含めて、業務過剰状態が慢性化しやすい。特に「真面目な」人は、多様な業務を過剰に引き受けやすい。「いい加減」な人、また、体力に自信がある人ならこなせることも、対応できずに行き詰ってしまう人は多い。
 こうした管理的業務を引き受ける人には、退職後に疲れがどっと出てしまう人もいる。それを避けるために早期退職する人も多い。昨年9月の記事でも紹介したが、校長・教頭を務めた男性教員の平均寿命の低さが驚かれる。同じような事態は、いろいろな場で見られる。
 そういう私も、40代末から50代初めの繁忙で、体力的精神的にダウンしてしまい、早期退職を実行した。無論、もともと早期退職のつもりだったが、それを確定促進させることになった。

 そうした事態を避けるためには、管理的な仕事を避ければいいのではないか、という問題が登場してくる。だが、40代50代の男性の心を縛っている「ベテランになったら管理職になることが必要だし、それが社会的地位・収入などとつながる」という社会的慣習の圧力はかなり強い。そこから自由になるには、かなりの決断が必要だろう。

 年齢的に、仕事の最終期は、確かにベテランとしての力量が高い時期だろうが、体力的にはぐんと落ちる時期だろう。この両者の矛盾をどうしたらよいのだろうか。このことを次回考えてみたい。
 



 写真は本文に関係なく、我が庭のナデシコ
  

Posted by 浅野誠 at 19:14Comments(0)生き方・人生

2013年01月28日

若者の生き方シリーズ 4「若者の人生創造」 ホームページ掲載

 昨年春から作業を続けてきた、『若者の生き方シリーズ』がようやく完成した。2004年から2011年にかけてこのブログの前身のHPやこのブログに書いた記事を編集したものだ。

1 人間関係・大人側の若者への対し方    (2012年7月)
2 学ぶ・働く・お金・文化スポーツ・旅移住 (2012年9月)
3 進路創造・仕事             (2012年11月)
4 若者の人生創造             (2013年1月) (今回)
 
 いずれも、ホームページ「浅野誠・浅野恵美子の世界」http://asaoki.jimdo.com/ に掲載したので、そこからダウンロードできる。

  目次を紹介しておこう。
  5.人生創造
51.ストレーター・コースを問う
〇 ストレーター 10~20代と50~60代                        
〇 若者の生き方---その2.癒し・起業家・人生後半期の人々とのズレと連携          
〇 競争・格差社会での「人生選択」から「人生創造」への転換を                 
〇 児美川孝一郎「若者とアイデンティティ」法政大学出版局2006年を読む           
〇 偏差値依存型進路選択と子どもの将来希望・目標形成の弱さ                 
〇 工業化時代のライフコース≒ストレーターコース? 宮本本9                
〇 「ライフコースの個人化」と人生創造 宮本本10                     
〇 ライフコース前半期の変化と人生創造 宮本本11                     

52.「標準」とは異なる生き方の探求 
〇 新しい生き方基準をつくる会「フツーを生きぬく進路術17歳編」(2005年青木書店)を読む 
〇 佐藤洋作・平塚真樹編著「ニート・フリーターと学力」(明石書店2005年)をきっかけにして考える
〇 「よりよい第二標準」へのオルターナティブな教育の課題を追究する新谷周平論文       
〇 『若者と貧困』本1 リアルな現実提示と鋭い問題提起                   
〇  『若者と貧困』(明石書店2009年)2 国家と社会                    
〇 『若者と貧困』本3 「非標準的な生き方」への団塊世代の憧れ               
〇 『若者と貧困』4 これまでの「標準コース」の問題性                   
〇 『若者と貧困』5 「標準でない」生き方の創造へ                     
〇 『若者と貧困』本6 人間関係上の貧困と経済上の貧困                    
〇 「迫られる自立像の転換」中西の指摘  『子どもの貧困白書』8              
〇 「ノンエリート青年の社会空間」を読む1 本の概要                    
〇 ノンエリート青年本2 「所与性のドグマ」と「レール型生き方」               
〇 「ノンエリート青年」本3  第二標準                          
〇 「ノンエリート青年」本4  「なんとかやってゆける」仕方                
〇 「ノンエリート青年」本5  人間関係                          
〇 「ノンエリート青年」本6  家族形成                          
〇 「ノンエリート青年」本7  年収水準 金銭依存 沖縄                  
〇 「ノンエリート青年」本8  いろいろと                         

53.人生の模索 
〇 人生後半期創造を始めつつあるみなさんとともに東海「非行」に向き合う親の会でのワークショップと語り合い      
〇 困難を抱える若者への対応・・・生活指導学会での討論                   
〇 人生で大切にするもの 看護大学授業                           
〇 若者の人生創造 生活本8                                 

54.人生おこし・若者人生物語 
〇 乾ほか「明日を模索する若者たち:高校3年目の分岐」,Inuiほか「Comparative Studies on NEET, Freeter, and Unemployed Youth in Japan and the UK」を読む 
〇 人生創造物語in沖縄
スタートへの想い                                  
若者1 榕樹  工業高校→キセツ→大学入学                      
若者2 起業家への道を歩む毅                              
若者3 東京の先端企業を退社して沖縄に住みはじめた佐藤雅                
若者4 介護―看護への道を共に歩む千春と功二                      
若者5 農業で模索する慎二たち                             
〇 沖縄移住の若者の生き方                                 
〇 進路・仕事と恋・結婚・・・学生たちの人生創造物語                    
〇 10代若者が夢中になるものと、若者の人生おこし                     
〇 「人生おこし」に関心をもつ若者が読む  私の新刊本への反応                
〇 法経系大学生の人生おこし 「人生おこしの教育」補論                   

55.生き方教育 
〇 久しぶりの琉球大学授業 多様な学生の出会い                       
〇 『知的障害者』にかかわる『生き方』の教育のほうが蓄積が多い               
〇 教職受講沖縄学生にみる「進路指導」感覚の新しい様相                   
〇 高校生の10年後のためにしていること・したいことを、重要性・現実性を基準にならべてみる 
〇 全生研大会「進路問題を考える」分科会での話題                      
〇 「卒業→就職」という枠組みを越えた視野からの興味深い問題提起              
〇 井沼淳一郎さんの「はたらく・つながる・生きる」現代社会授業               
〇 「学校→雇用」構図の揺らぎ  世代間時代間のずれと協同                 




 写真は本文に関係なく、我が庭の菊。
  

Posted by 浅野誠 at 11:26Comments(0)生き方・人生

2013年01月27日

真面目に受験コースを歩む溢美1 若者の試行錯誤物語11

 溢美は、トップクラスの公立進学高校に入学した。ゼロ校時から放課後特別授業まで一日8時間ほどの授業を受けていた。部活は中学時代にやっていたバレー部に属していたが、練習時間は、一日2時間週三回と制限され、対外試合は年に4回までだった。
 1年生の時から、大学受験に合わせた学習を中心にして生活が回っていた。朝夕ともに、母親が校門までの送迎をしてくれた。そういうクラスメイトがほとんどといってよいほどだった。
 親や教師の言うことにはよく従う真面目な生徒だという、中学時代の評判は高校時代でもそのまま続いていた。人前で積極的に自分を出すタイプではなく、物静かにしている方が心地よかった。
 少し気分を変えられたのは、週一回のピアノレッスンだった。5歳から続けてきたピアノが大変好きで、将来音楽系の高校大学への進路を取りたいとさえ思ったことがあった。中学校に入るころになり、まわりのピアノを習っている人の様子からすると、自分はクラシック系学校に進むレベルではないことに気づき断念した。
 高一の後半には文系コースを選び、文学部とか社会学部とかのコースがイメージされた。高二になると、バレー部もやめ、早くも受験一色になってきた。息抜きになったのは、小説を読む時ぐらいになってきた。徐々に2,3の作家に絞って読書するようになった。時には、茶華道といった古典芸、西洋文化と東洋文化といった事に関わる本を読んだりした。そんななかで、平安時代や室町時代の文化といったことに関心をもち始める。高三初め、進学先をいくつかの大学・学部に絞る段階になって、平安文学、中世芸道、比較文化、文化史といったことが学べるところに目が行き始めた。
 成績は、中の上ぐらいのところを行ったり来たりしていた。他府県の大学に行きたい気もしたが、親が躊躇している感じだったので、自宅から通える大学に絞った。すると、分野からいって国立一校私立一校が候補に絞られた。私立校は科目が3科目なので、得意科目で合格ラインより上にあるが、国立はセンターテスト次第というレベルだった。

 センターテストの時、体調が悪く、受験を迷うほどだったが、受験した。案の定、芳しい成績ではなかった。私立の入試では合格をもらったが、国立の二次試験では、センターテストを挽回できるほどではなかった。浪人するかどうか迷った。その私立大学のオープンキャンパスの際、関心分野の教員の話が印象的だったこともあって、その大学への入学を決めた。
 大学授業は、語学体育大学入門ゼミ以外は大規模講義で、高校時代の延長のように感じた。講義内容に面白いと感じることもそれなりにあった。
 緊張したのは、大学入門ゼミだった。最初の授業の自己紹介の時に、すでに緊張状態だった。全員初対面ということもあった。2回目から順に関心事項について5分間スピーチをすることになったが、4回目の授業が溢美の順番だった。前日から内容を3項目にまとめて準備していたが、緊張のあまり、2番目で「息切れて」一番関心持つ3番目を言えずに終わった。緊張と不燃焼感が残った。
 教職課程も受講し、講義のなかで、学校現場の話が出てくるのが面白かった。自分が経験した学校生活とは随分異なる世界が一杯あるんだと思った。

 こうした流れの中で2年生と進級していき、専門的な学習への基礎となるゼミを選ぶ必要が出てきた。
 (続く)



 写真は本文に関係なく、我が庭の菊。
  

Posted by 浅野誠 at 06:51Comments(0)生き方・人生

2013年01月25日

人生後半期の年齢区分

 このところ、人生後半期についての本を読むことが多い。たとえば、60歳以降の生き方、老後の準備、退職後の生き方、40歳以降の生き方といった類いの方だ。
 それらの本をみると、40代、または40代半ば以降の、人生後半期の年齢区分をどうするかが、話題になることが多い。たとえば、60歳または65歳の退職の前と後とでの区切り、70歳の前と後とでの区切り、あるいは、前期高齢者と後期高齢者という法律の区切り、あるいは、80歳の前と後という区切りもある。これらを組み合わせて、二分ではなく三分するやり方もある。また、年齢ではなく、健康寿命という視点からの区切り方もある。
 考え方によって大きく変わる。それに、個人差が大きい。平均寿命でいうと、70代後半である男性の場合、高齢期間の長短は、個人差がより一層大きい。だから、年齢区分を一般的に行っても、個人によって意味が大きく異なる。人生の末期はいつごろか、など言うことは、寿命の個人差が大きいのだ。逆算方式が可能なら、寿命から逆算したらというアイデアもありそうだが、そういうわけにもいかない。

 また、被雇用者と自営者とでは異なる。自営業者とは異なり、被雇用者の場合は、「定年」という区切りが設定しやすい。とはいえ、「定年後の再雇用」などの形で、仕事をする人が多い中で、以前と比べると、定年後も務めている人が増えていそうだ。
 その際、年金も含めて必要な支出を賄える収入があるかないか、が大きな問題となる。収入がないとしても、社会的に有用なことができるかどうかが、この時期の健康や寿命に大きくかかわるという叙述もある。とくに男性の場合にそうだという記述がある。
 自営業者と比べると、被雇用者はオールオアナッシング的ありようになりやすい。それを避けるために、必要な収入がある時期→収入はゼロに近くなるが社会的有用なことができる時期→それもかなわぬ時期、という区分もありうるだろう。
 振り返ってみると、自営業者がほとんどであった時代→終身雇用を軸にした被雇用者が多い時代→職場をいくつも経験していく人が増えていく時代、といったように、社会変化が強い影響をもたらしている。単に平均寿命が伸びたということが新たな事態をもたらしたわけではない。

 私が、10年ほど前に「人生後半期」という表現を多用したのは、被雇用者に多い、「働くか退職か」というオールオアナッシング的な発想を避けたい意図と、定年という形で他者によって区切られるより、みずから積極的に区切りをつけ、その準備を40代50代から早目にしてはどうだろうか、といった意図も含んでいた。
 私自身の区切り方でいうと、50代半ばで、退職→玉城での田舎暮らしという区切りをした。そして、今、10年近くたち、次の区切りの時期が近づいているように思う。



 本文とかかわりなく、3階ベランダから池・ラセンハーブ園と周囲を見る。
  

Posted by 浅野誠 at 19:22Comments(0)生き方・人生

2013年01月24日

競争より共同の、強者より弱者のスローライフ スローライフ22

 長かった連載も、いよいよ一区切りする。いつか再論するだろうが。

 スローライフは、中高年齢者だけのことではなく、若い人たちにとっても必要であり重要だ。また、スローライフする余裕がある人だけの話ではなく、むしろ余裕がない人と思っている人にこそ必要なものだ、と私は考えている。その理由に関わって書こう。
 このところ書いているように、私のスローライフは、孤立とか孤高とかではなく、他者との依存共同関係のなかで育まれ保たれていくものだ。だから、当然、外に開かれるし、外にある多様なことを排除したり拒否したりするのではなく、受け止めようとする。スローライフのなかで、瞑想のようなことを大切にする人も多い。宗教家などにそうした人が多い。だが、瞑想などは自然や人々から切れて行うものではなく、自然と人々とより豊かにつながるために行うものにしたいと私は考える。

 こうしたことは別の視点から見ると、弱者の生き方である。弱いからこそ自然や人々とつながるのだ。強者は、競争・勝負の世界に生きて、自然や他者に勝つことにこだわる。自然や人々との間に生まれる関係も、対抗・勝負と見なそうとする。強ければ勝利し生き残って、豊かな生活を送れると思い込んでいる。弱者が、強者と出会うと、そんなに勝ちたければ、どうぞお勝ち下さい、と譲ったりする。それがスローライフなのだ。相手を打倒して勝って何になるというのか。
 勝ったつもりの強者が実は孤立を深めることが多い。強者であることが、権力・権威をふるまっているだけのことが結構ある。強者である人の周りに人が集まるのは、権力・権威を持っている時だけだ。その人柄を慕って集まっているわけではない。組織・地位を失った人が、それを失った時に、そのことを痛いほど知らされることがある。定年退職した、かつての勝者にもそうした悲哀を味わう人がいそうだ。

 スローライフは勝って手に入れるものではない。幼稚園保育園の「かけっこ」の時、もし人より先になってしまったら、後ろの子どもを待って、手をつないでゴールインするようなものだ。
 金持ち型のスローライフは、競争に勝利して、カネをもうけて、他者を排除し他者と切断して、カネづくのスローライフを味わおうとするものだ。対照的に、弱者というか、普通の人のスローライフは、人々とつながりを広め深めながら、保たれていく。
 こうしたありようをもつ「ゆとり」を、競争や勝負が激しい風潮の中、持ちづらくなっているからこそ、余計にこうしたスローライフを求めていきたいものだ。 




 写真は本文とは関係なく、當間学童クラブの子どもたちのボール遊び風景
  

Posted by 浅野誠 at 11:28Comments(0)生き方・人生

2013年01月23日

入学後「気の抜けた」ような信也 若者の試行錯誤物語10

 ゼミを休んだ翌日、自宅を出るが、大学にいって誰かに顔を合わすのがおっくうな気分だったので、しばしドライブをし、海辺に行ったりした。翌々日は大学に行き、大講義の授業に出る。会話するどころか目が合う学生もほとんどいない。思い返せば、入学以来そんな感じだった。幸いというか、ゼミ生とは誰も顔を合せなかった。
 帰宅して、母親から「顔色が悪いけど大丈夫か」と声をかけられて、2日間大学を休んだ事を話した。母親は、「元気になってね」と声をかけてくれたが、それほど心配した感じではなかった。
 こんな風にして、「気の抜けた」ような生活がはじまり、授業の出席率が下がって行った。次回のゼミに出た時、「先週、風邪気味で休んですみませんでした」と担当の近藤先生に話すと、「次の時はよろしくね」と返された。他のゼミ生とは目があったが、特別な会話はなかった。
 
 こうして前期末の試験期間を迎え、22単位登録中の14単位の取得にとどまった。ゼミは、C評価だったが、単位はあった。9月初めに成績通知が保護者のもとに届いた。親が心配して保護者会に出かけ、この単位数で大丈夫か質問して、微妙なレベルだとの返答を得た。
 
 なにかメリハリのなさを感じていた。母親が何かに取り組んでみたらと誘いかけた。「アルバイトをしたい」といったら、今度はOKしてくれた。週2回ほどスーパーの商品並べ作業をした。レジのような人相手ではなくモノ相手だから、自分には合うと感じた。 
 後期に入って、4月から顔なじみになっていた孝信が入っている音楽サークルに顔を出し、音楽を聴き合うようになった。授業の方は、2/3ぐらいの出席率だった。しかし、外国事情の話以外は、刺激を得るようなものはなかった。
 このころ、サークル仲間のファッションセンスの良い繁樹からの話もあって、ブランド物、といってもそれほど高価ではない帽子を買ったことが一つのきっかけだった。それ以後、ファッションへの関心が増した。購入資金は、アルバイト代金だったので、アルバイト時間を増やした。
 母親は、ファッションに関心をもつ信也を悪くは思っていなかったが、学業への熱心さを感じない様子に少々不安をいだいていた。

 年末になるころ、このまま大学にいても、有効なものがあるかどうかが気がかりになり始めた。自分にとって有効なことは何だろうか、と孝信などの同級生とも話したり、スマホを手に入れたこともあって、そのころはまり始めたソーシャルネットワークでも、情報を得たりし始めた。
 後期も12単位取得にとどまった。そんな結果を受けて、2月末に何かの行動への踏ん切りをつけようと、中途退学手続きをしようとしたが、親に止められて休学にした。
 以後どうなっていくのかどうしていくかは、不鮮明なままだった。




 写真は本文とは関係なく、みなみ学童クラブの押し入れでの「ごっこ遊び」風景
  

Posted by 浅野誠 at 06:52Comments(0)生き方・人生

2013年01月21日

オーバーペースからマイペースへ スローライフ21

 私が体調を崩した時、後から思いなおすと、ほとんどがオーバーペースだった。体力の上限を越えて仕事をしたのだ。その時、オーバーペースではなく、適切な仕事量の範囲内だと思っていても、後から思い返すと、オーバーペースなのだ。
 思春期から10年近く前まで長期間悩みつつ付き合ってきた頭痛も、オーバーペースが原因だったことが、頭痛の悩みがなくなった最近気付いたことだ。
 オーバーペースを、別の言葉でいうと無理をするということだ。

 しかし、その時は、「まだ頑張りが足りない」「必要なことができていない」と考え、自分の頭・体に「鞭打つ」ために、コーヒー・お茶を多用し、若い時には煙草を吸ったりもした。
 そのころは、どれぐらいがマイペースだかわからなかった。「まだ若いから、もっとできるはずだ、しなくてはならない」と思っていた。「しなくてはならない」ことは、『外』からやってくるだけでなく、自分自身でも作りだしていた。その結果、「自分で自分を鞭打つ」ことを随分していた。それに合わせて、「頑張ろう」「努力」「克己(自分に勝つ)」といった言葉を愛用してきた。

 では、オーバーペースだから、たくさんのことができたかというと、そうでもない。その時はできたつもりでも、集中が途切れたり、疲労がたまって寝込んだりして、マイペースの仕事と収支決算が最終的には同程度になっていたのだ。むしろ疲労の蓄積による病気など悪影響の方が大きい。
 ということが、マイペースでやっている現在、よくわかる。オーバーペースにいる最中にはなかなかわからないものだ。

 物質的には、これだけ豊かになった時代にもかかわらず、現在はオーバ-ペースが社会的に要求される時代になっている。「外」からオーバ-ペースが要求されるのだ。だが、自己破壊を防ぐために、集中を途切れさせたり、うまくさぼったりしている人が多い。しかし、それをも管理し取り締まり抑え込む動きが強い。結果的に、40代50代男性を中心に、ストレスも仕事量も過剰で、人生を早めてしまう人数の高止まり状況を生みだしているのではないか。
 だから、マイペースを生みだす、作りだす、発見すること自体が難しい時代でもある。でも、そうしたい。そのための一歩として、自分で自分を責めるようなあり方から卒業し、「自分なりによくやっているのではないか」という考え方に馴染んでいくことをきっかけにしたい。
その際、「みんながこうしている」「会社や社会の標準がこうだから」「テレビなどの情報ではこれが普通のようだから」といったことから、距離を置くこともきっかけになるだろう。

 こうしたこととスローライフの行き方は深いかかわりをもつ。



写真は、本文に関係なく、我が庭のペンタス
  

Posted by 浅野誠 at 19:16Comments(0)生き方・人生

2013年01月19日

大金持ち志向はいいのか  スローライフ20

 年末年始になると、毎年プロスポーツ選手の高額契約が話題になる。数億円という途方もない金額が新聞紙上を飾る。必要経費があるとか、一生のうちの十数年しか稼げないのだから、とかの「言い訳」は聞くが、実際生活上に必要な支出額の百倍、時には千倍もある。同じように、ニッサンのゴーン社長の数億円の報酬のように、大会社経営者の報酬や、配当収入とか投機収入も話題になる。
 話題になるが、それらへの批判的なトーンは滅多に見られない。生活保護をめぐっての批判的トーン、あるいは格差のなかで苦しんでいる人への「自己責任」「自業自得」的な批判的トーンの話とは対照的に、高額所得への批判的トーンの論調は、脱税でもない限り、めったにお目にかかれない。むしろ、そんな大金持ち、高額収入を目標にしてがんばろう、という気持ちをふくらませるトーンが強い。
 プロスポーツ選手の報酬が、「お金」中心だというのは、不正常だと思う。高い技量を獲得し、そのことが称賛され、そのレベルの技量を目指して、多くの人が頑張るということ自体が、報酬の中心ではなかろうか。
 私は、2000万円以上の収入は不正常だと思う。2000万円でも、かなり潤沢にお金を使えるはずだ。そうした額を上限にしたら、いいと思う。国内の収入格差、国際的な収入格差を思う時、2000万円を上回る額は、税なり寄付なりで運用した方が、より多くの人が幸福になれると思う。
 自家用車を何台も持ち、自家用飛行機をもつとか、一晩で何十万円も飲食するなどというのは、贅沢の限度を遥かに超えていると思う。高級ホテルに宿泊するにも、そうした例が多い。
 一泊5万円以上のホテル。周辺に月収数万円~10数万円の人が暮らす。いわゆる発展途上国の観光地の話ではない。ここ沖縄での話だ。宿泊者が、周辺地元の人と交流するような観光滞在ではない。

 こんなことは、昔からあったといわれようが、皇族貴族大名とか身分制の時代、あるいは大地主とか成金とかいわれた時代の例外的な人の話だ。近年は、努力さえすれば、だれもが大金持ちになれるかのごとき風潮さえ形成されているように感じる。
 だが、現実には、よくいわれるジニ係数で示されるような格差の拡大であり、多数の貧困ライン以下の人を生みだす中での、巨大収入者を生みだす構図なのだ。右上がりの時代には、収入下位の人の収入もそれなりに伸びていたといわれることもあり、それが「一億総中流」幻想を作り出したわけだが、いまは、そういう時代ではない。大金持ちの出現は、格差拡大と連動する時代だ。
 
 もう一つ、お金を使わないから、景気がよくならない、といって消費刺激をあおる動向がある。倹約とか、修理して使おうではなく、すぐに廃棄する流れが強力に作られる。
 普通に考えれば、「何かが狂っている」と思うのだが、その「狂っている」流れが日常化され、さらには「道徳」にさえされかねない事態なのだ。

 こんな歯車をどこかで変えなくてはならないと思う。スローライフは、その役割の一端を担うものでありたい。大金で買うようなスローライフは、どこかが狂っているだろう。




 写真は本文に関係なく、大里城址公園



  

Posted by 浅野誠 at 06:56Comments(0)生き方・人生

2013年01月17日

老年的超越としての、ボケ=恍惚的境地 嵯峨座晴夫さんの提起

 再度、嵯峨座晴夫「人口学から見た少子高齢化社会」(2012年佼成出版社)の本だ。
次のような一節がある。

 「老年的超越という言葉は、スウェーデンの老年学者トルンスタムらが一九八〇年代から提起していたものです。(中略)彼らは、「老年的超越とは、メタ的な見方への移行、つまり物質的・合理的な視点からより神秘的・超越的な視点への移行である」と定義しています(中略)。
 それは、超高齢者の行動や心理に現れる老年期の超越的な傾向を示すもので、もともと東洋的禅の思想にヒントを得た概念だとトルンスタムは述べています。この老年的超越が現れるのは、次の三つの次元であるとしています。その第一は、宇宙的次元における時問・空間意識の超越、生死の超越などの状態、第二は、自我の次元における彼我の超越、自己の身体へのこだわりの減少など、第三は、社会関係の次元における関係の意味や重要性の変化、役割意識の変化などであると彼は述べています(中略)。
 要するに、老年的超越とは、従来、世間で俗に「ぼけ」といわれるような心理状態にあった人たちを、病気としての認知症の人たちと、それ以外の人たちに分けて、後者に属する人たちを人生の最終の発達段階にある人たちとして再定義したものと考えることができます。別の言い方をすると、老年的超越はエイジングの正常な過程として人生の終末期に現れる超越的心境を指しているといえます。
 この心理状態についての認識は、今後、超高齢者が増加するにつれて、ますます重要になってくるものと考えます。それを人生の終末期における「恍惚的境地」と呼ぶことができると思います。老年的超越とは恍惚的境地だといいたいのです。現在、日本でも実証研究が始まっています。ジェロントロジーがこの分野にも科学の光を当ててほしいと思います。」P195-7

 私は、80代になるにはかなりの年数が必要だが、ここにあることが、ちょっぴりは分かるような気もする。
 ボケ=恍惚的境地を、否定的にではなく、より積極的肯定的に受けとめることが求められているようだ。

 最近、私は「生涯対人援助学としての生活指導研究」について考え始めるようになった。そのうえで示唆的な記述だ。
 私は、研究課題を、自分自身の実践と並行して進めてきた。研究対象のことは、自分で実践してみないではおれなかったし、また、実践していることを、研究してみないとすまなかった、というわけだ。ということもあって、20年以上前に、「研究的実践者」「実践的研究者」という言葉を作った。
 ということで、紹介文のような世界について、60代後半になって、ちょっぴり考えられるようになってきたというわけだ。




写真は、本文に関係なく、クルクマから見た、アージ島とヤハラヅカサ方向



  

Posted by 浅野誠 at 19:18Comments(0)生き方・人生

2013年01月16日

母親大好き信也の大学入学後のとまどい 若者の試行錯誤物語9

 信也の父親は、母親が経理を補助する以外に従業員がいない小ぢんまりとした自営業に従事している。曾祖父時代に耕していた畑は基地内で、そこからの土地代が年に200万円余りあり、周りから見れば安定した暮らしだった。信也たちは「そこそこ」の暮らしをしていた。
 母親は妹もあわせて、子どもたちの面倒をよく見ているが、社交的ではなく近所付き合いが少なかった。信也は、小学生のころから友達といえるほどの関係をつくった同級生は少なかった。しかし、母親が結構遊んでくれるので、困ってはいなかった。父親もたまの休日にはドライブなどに連れて行ってくれた。
 小学生時代、スイミングクラブに通ったこともあった。中学時代は、サッカー部に属していたが、大会ではたまに1回戦に勝つぐらいのレベルだった。それより、ゲーム機で遊ぶとか、中学になって買ってもらったコンピュータのゲームで遊ぶ事の方が「充実感」があった。
 信也の成績は、「まあいい方」で、高校は普通科特進クラスに入った。部活には入らず、ゼロ時間目などもある授業以外では、教師の指示にしたがって、なんとかこなしていた。朝夕、車で学校まで送迎してくれた母親は、信也に教師か公務員を目指してほしいと考え、それを信也にも語っていた。高校時代も、信也は学校の勉強以外の時間は、コンピュータゲームなどで過ごすことが多かった。
 将来進路としては、母親が勧め、父親も同調していた教師公務員関係だろうな、と思っていた。英語が比較的好成績だったので、英語教員資格もとれる国際関係の学部学科に進むことを考えていたが、他府県の大学にまで進学するイメージはなく地元大学に行こうと考えていた。できれば国公立と考えていたが、センターテストが思うほどにできず、地元私立大学に入学することになった。

 ここまでは、「そつなく」やってこられたと思う信也だが、大学に入ると、受講科目や時間割設定などを自分で決めなくてはならないことにかなり困った。高卒の両親には相談できなかった。オリエンテーションの際に知り合った、学生番号が近い孝信と少し相談した。
 授業では、英語だけでなく、国際関係にかかわる入門的な授業があり、受講生の何人かが積極的に発言したり、自らの経験を話したりするのに驚いた。外国生活体験のある学生の発言には圧倒された。オリエンテーションの際に海外短期留学制度の話を聞いたが、現実感がなかった。

 入学前に免許を取り、親に買ってもらった軽自動車で通学した。孝信以外にクラスメイト数人と顔なじみになったが、たいていはアルバイトをしており、アルバイトの話で盛り上がるのを見て、自分もしてみたいなと思うようになった。学費も生活費も親がかりであったので、親に相談すると、「無理にやる必要はない。必要なお金は出す」といわれ、しばし「様子見」になった。

 大学での学習への入門となるゼミは、近藤先生のクラスになった。熱血漢の近藤先生の迫力には圧倒された。というより圧倒され過ぎた。「親・友達・子ども・衣・食・住・地球・地元・お金・愛・・・などを、人生で大切にするもの順で並べなさい」という活動をした際、信也は第1位に親を置いたが、他のたいていのゼミ生もそうだったので、同じなんだな、という印象をもった。
 6月には、口頭でのミニレポートの順が回ってくるころ、なんとなくおっくうに思っていたが、その日の朝、風邪気味だったこともあって、休んでしまった。
  (続く)




 写真は本文に関係なく、我が庭のマリーゴールド



  

Posted by 浅野誠 at 11:28Comments(0)生き方・人生

2013年01月15日

モノ・コト・カネに支配されない人間関係 スローライフ19

 前回、私は「仙人」と呼ばれると書いたが、それは人間関係から離れるのではなく、人々と豊かな関係を作るタイプのものだ。
 大都市での人間関係に疲れて、そこから離れた「癒し」を求めて、スローライフしようとする人がいる。大都市の喧騒だけでなく、人間のザワメキを避けるために、海などの自然をじっと眺める人も多い。
 しかし、それは、変な人間関係ばかり経験した人のような印象を受ける。

 かつての人々を縛るような共同体・コミュニティから逃げることは、ある意味で必要なことだろうが、それは人間関係一般が不要ということではない。そうしたものに代わる新たな人間関係をどう作るかが肝要だろう。
 しかし、それには、人間関係にかかわる自主的な営みの蓄積が必要になる。それは、自発的な組織、つまりはアソシエーションに結成参加するということでもある。といっても、多くの人は、会社という形でのアソシエーションに入った経験をもっている。しかし、会社はアソシエーションというよりも、上意下達的なコミュニティ、つまり日本的経営になってきた。
 こうして、大都市は、多種多様なアソシエーションができ、それらの集合体としてのコミュニティからなるところではなく、モノ・コトに媒介された関係が渦巻くところになっているのではないか。人間関係が、モノ・コト、さらにいうとカネに支配される形になっているのではないか。人間関係に拒否的になり「癒し」を求める人の人間関係には、ヒトではなくモノ・コト・カネが支配しているのではないか。そのため、田舎や観光地(とくにリゾート地)に「癒し」を求めてやってくる大都市人は、ヒトのつながりに拒否的になりがちである。 
 同じようなことは、退職した会社人間にもいえるのではないだろうか。会社時代の人間関係は、実はモノ・コト・カネのつながりであり、退職した後は、関係が続かない人が多いのではなかろうか。もうそれは、過去のモノであり、それには依存できないのだ。
 こうしたことを考える時、スローライフをするということは、モノ・コト・カネに比重をかけないで、豊かな人間関係を築くということだ、と思う。
 長く田舎暮らしをしている私周辺の人々の生き方をみていると、自然との豊かな関係だけでなく、人間と豊かな関係をつくり、そのなかに生きつつスローライフをしている人が圧倒的に多い。年収300万円以上という人は、とても少ないので、大都市基準でいくと、「貧困」すれすれラインにいるとみなされてしまうかもしれないが、カネに依存した生活ではないので、当人たちは「貧困」だとは感じていないだろう。

 ところで、最近読んだ暉峻淑子「社会人の生き方」(岩波新書2012年)は、示唆に富んだ本だが、こうした問題にも間接的に言及しているので、おすすめだ。




写真は本文に関係なく、我が庭のセイロンベンケイ
  

Posted by 浅野誠 at 06:55Comments(0)生き方・人生

2013年01月11日

高卒就職で専門学校学費を貯める計画をたてる敦司 若者物語8

   (前回の続き)
 敦司は高校2年の後半になり、将来進路を考え始める時期になる。中学の時のように、せっぱつまってからではなく、早目に考えようとしたが、具体的な職業とか獲得したい職業資格ということでは、はっきりしたイメージを持てなかった。
 敦司の家は、敦司の大学進学を支えられる経済力には届かないレベルだった。親は、高卒までは支えるが、その後は自分でなんとかしろ、と話していたし、姉も高卒で働いていた。弟は中学2年だった。
 敦司自身も、高1半ばから牛丼やカレーを出すチェイン店でアルバイトを始めた。当初の時給は630円で、週三日12時間ほど働いた。それは、日ごろのお小遣いや部活費用などにあてることが多く、貯金といっても高2秋段階で、10万円にも足りなかった。それ以前の親戚からいただいたお年玉の貯金総計12万円の方が大きかった。それらを合わせても、進学資金などには遠く及ばない額だった。

 敦司は、進路資料を少しずつ集め、また長輝も含めて「先輩」などの話を聴き始めた。芸能活動をする大人や青年会メンバーたちも有益な情報をくれた。敦司は、こんな多様なつながりが、自分が持つ強みなのだと感じ始めた。
 資格というと、医療福祉系かIT関係が少しは身近なものに感じられた。介護福祉士、看護師などの医療福祉系の専門学校などには、20代後半や30代の社会人経験のある人たちがかなり学んでおり、かなり確実な道であるという話も聞いた。しかし、学費は卒業までに200~400万円にもなることが、敦司にはネックになる。
 「先輩」などの話で敦司にとって印象的だったのは、長輝のほかには、こんなものがあった。

 もう10年近くも前のことだが、高卒で愛知の自動車関連産業のキセツ(季節工)で1年間働いて貯めた資金で、大学学費にあてて大学4年間を終えた話。しかし、いまではキセツが激減している。
 多くの人が関心をもつ難易度を含む入学試験についてよりも、貸与ではなく給与の奨学金や授業料減免制度の有無、学費額、とれる資格、専門分野の特性などについて、全国の大学を調べたうえで、沖縄の私立大学に入学してきた関西出身の大学生の話。

 3年生になると、敦司は進路ターゲットを絞り始めた。当面の結論は、まずは就職する。正規雇用がベターだが、非正規雇用でもかまわない。最悪、アルバイトでもかまわない。いざとなったら、継続中のチェイン店のアルバイトでもいいと考えていた。それらで、300万円の貯金をする。最低でも150万円はする。 貯金できたところで、医療福祉系の専門学校に入学し、そこで得た資格で就職する。これが、当面の結論だった。
 この後、敦司はどうなっていくだろうか。

 脱線話。以前は、沖縄の大学には夜間部がかなりあったが、近年激減している。しかし、夜間アルバイトで働き昼間学生をするという形の、かつて「勤労学生」と呼ばれた人たちが結構いるようだ。
 


 写真は、本文に関係なく、タマグスクから奥武島方向を見る。手前から見て緑がなくなるあたりに我が家が小さく写っている。



  

Posted by 浅野誠 at 18:56Comments(0)生き方・人生

2013年01月09日

自然・人々とつながり合う いろいろな移住者 スローライフ18

 大学教員なりたてのころの私は、鬼だった。学生に厳しかったからだ。数年たって、鬼ではやっていけなくなり、10年ぐらいすると、学生にやさしい仏に変貌していった。
 7,8年前、受講生の沖縄国際大学の学生から「仙人」と呼ばれた。そのころ、長いあごひげをはやしていたことが仙人イメージを作り出したのだろう。でも、この表現が気にいって、その後たびたび「仙人の浅野です」と自己紹介したりもした。他の人も、田舎でのスローライフをしている私を、そう呼ぶのをためらわないようだ。
 しかし、はるか昔の中国の仙人は、人里離れて孤高を保ち、霞を食べていたが、私はそうではない。自然とつながり合うだけでなく、人々とつながりあう。

 スローライフ・田舎暮らしを求めて、私周辺にやってくる人には多様な人がいる。大都市からやってくる人が多いので、沖縄の海、景観、空気などの自然を味わいたい、エンジョイしたいと言う人が多い。
 そんな人にも、いろいろなタイプがある。多少不便を感じても、自然をそのままにして住もうとするタイプ。素晴らしい景観を味わうために、邪魔になる植物を切る人。急斜面だから、宅地造成して住もうとする人。急斜面に合わせて家を建てようとする人。家庭菜園を作る時に、邪魔な雑草を取るために除草剤をまく人。雑草も意味あって生きているのだから、できるだけそのままにする人。木を切る人もいれば、木を植え育てる人もいる。花を育てる人はすごく多い。その人たちにも、在来種と外来種とを気にせず、美しさ(時には安価さ)を重点に植える人。できるだけ在来種にしようとする人。
 自然に対する考え方も多様なのだ。私は、できるだけ木や草花を切らない。外来種より在来種を好む。といっても、必要最低限は切るし、外来種を植えることも結構ある。外来種の方が手に入りやすく、在来種を売ってないということもある。てぃんさぐの花(ほうせんか)の苗を売っている店は見たことがないが、インパチェンスはどの店でも大量に売っている。だから、日常的に見かけるのはインパチャンスばかりになっている。もともとの自然が比較的保たれている御嶽にインパチェンスが植えてあるといって、憤っておられる方もいた。
 スローライフは、できることなら、自然のままに、自然と共生するというか、自然に抱かれた暮らしを求めたい。自然と闘い、自然を加工することをできるだけ減らし、自然に従って、自然に包まれて生きたいと考えることが多いだろう。

 同じようなことは、人々とつながりあうことにもある。無論、自然に夢中で、人々とのつながりを考えない人、なかには大都市での人間関係に疲れて、人づきあいはもうごめんだ、という人もいる。また、音楽などの文化に新鮮な気持ちを感じる人も多い。そして、沖縄の人の暖かさ・ゆったりさがとても良くて、癒しを感じる人もいる。でも、わからない言葉もでてきたり、余りにのんびりしていたり、いい加減すぎると言って、愚痴をこぼす人もいる。
 全体としてみると、自然ほど人々のつながりを求めてないかもしれない。なかには、都市的便利さ依存症とか、金銭依存症とかのために、ヒトと直接つながるより、モノ・カネを媒介につながりがちな人も多い。
 スローライフを求めているのに、ついせっかちになってしまう人は結構多い。田舎暮らしを求めて沖縄に来たのに、結局は、わずらわしい人間関係がなく、モノ・カネとだけのつきあいでやっていける「便利」な都市地区に住む人も結構いる。無論逆に、都市地域にいたが、田舎に移る人も多い。また、移住者だけでかたまりがちな人もいる。配偶者の転勤で沖縄にきた人で、職場の宿舎内の人間関係にとどまる人も多い。
 (続く)



写真は本文に関係なく、ヤハラヅカサからの日の出
  

Posted by 浅野誠 at 19:14Comments(0)生き方・人生

2013年01月07日

中卒就職者から刺激を受け模索する 敦司1 若者物語7

 敦司は、大山高校普通科に通っている。大山高校普通科からの進路は、大学進学が約6割、専門学校進学が約3割、就職が約1割。10年前までは就職者が4~5割だったが、高卒の就職難のなかで、進学比率が高まってきた。
 敦司は中学の時に、進学か就職かで迷ったことがあった。そのことを口に出して、教師や親を驚かせた。

 敦司の同級生の兄で、10年余り前に中卒で建築業に就職した長輝の話を聞いたことが刺激になったからだ。長輝は、従兄弟たち皆が大学進学するような環境の中で育ってきたが、自分なりのワザを身につけることが重要だ、という考えで、大工、とくに専門性の強い宮大工のような仕事で生きていこうと決意して、周りの大多数の反対を押し切って、中卒就職したのだった。評判のマッサージ師をしていた祖父だけが応援してくれた。
 長輝は、いまどきでは珍しいといわれるほど職人気質で腕の良い佐久田に弟子入りし、仕込まれた。といっても、そうした世界ではどこでもあるように、下働きを3年ほどやり、ようやく大工仕事の初歩を学び始めたのだった。そして、5年間かけてある程度の仕事ができるようになり、さらに他府県に出て専門的な大工仕事を修業できるところを探そうとしていた。

 ところが、大工仕事の世界も、技術革新の進行のなかで、佐久田たちのところの仕事が減り、腕の見せ場になるような業務は激減してきた。他府県でも似たような状況らしく、また専門的なワザを教えてくれるところも高卒資格を前提にしていると聞いてショックを受ける。
 迷いながらハローワークにも通い、ワザを磨くような仕事がないか調べた。しかし、どこも高卒を基礎資格にしていることにショックを受けた。そこで、もう20代半ばになりつつあった長輝だが、通信制高校に入学することにした。入学してみると、同級生が実に多様な人生経路をたどっていることに驚いた。中には、40代50代もいた。彼らとの語らいのなかで、長輝は、自分が中卒で仕事をしてきた選択に自信をもっていいことに改めて気づいた。
 仕事量が減ったとはいえ、建築業の仕事を継続しながら、通信制高校を終える段階で、さらに学びがいのある分野があることがわかり、大学進学を考え始めた。
 こんな流れのことを、敦司に話したのだった。高卒が必要な時代になっているが、自分が何をしたいかをできるだけはっきりさせながら、高校に行くべきだと語った。長輝からみれば、職場などで出会う高卒、あるいは大卒にしても、自分が何をしたいのかをはっきりさせないまま働いていることが、じれったかったのだ。

 敦司は、一応高校進学にするのだが、長輝の話を聞いて、自分なりのものが大変薄いことに気付く。中学までの部活体験と趣味の音楽体験をもとに、スポーツ関係音楽関係の進路に行けたらいいなあ、と考えていたが、そんなタイプの夢物語では不充分なことに気付き始めた。資格を獲得できる工業高校を選択するのも一案だと思ったが、そのことに気づいたのは中学3年の2月で時すでに遅く、流れの中で普通科に進学することになったのだ。

 高校入学した敦司は、中学までの音楽趣味を生かして、郷土芸能クラブに属した。民謡やエイサーを中心に活動するクラブだったが、大人の芸能家やエイサーや伝統芸能をする青年会などとの交流があった。敦司は、これらのなかで、かつてない広い世界を知り、地域発見をし、「地域に生きる」イメージをぼやっとしたものだが持ち始める。

(続く)



写真は本文に関係なく、ヤハラヅカサからの日の出
  

Posted by 浅野誠 at 19:21Comments(0)生き方・人生

2013年01月06日

ワーカーホリック病から卒業できない人々 スローライフ17

 私が2002年4月に退職届を出して、2003年3月末に退職するころの話だ。
 私の退職届には、退職理由として「今後の人生を計画するため」と書いた。すでに固まった計画があったわけではなかったからだ。といっても、沖縄に移住することは決めており、土地探しを始めていたが、具体的な生活・仕事の計画はなかった。沖縄移住(沖縄戻り)は、すでにその10年ほど前に決めていたことだ。
 これらは秘密でなく公表していた。しかし、勤務先の大学関係者は、「どこか別の大学に転勤するのだろう」と思っていたらしい。退職間近になってようやく、「本当の退職らしい」と信じる人が増えてきて、「まだ若くて、定年まで十何年も勤められるのに、どうしてそうするのか」と尋ねられたりした。そこで、この連載で書いているようなスローライフのことを話し、仕事から身を引くということではないことを説明した。
 そうすると今度は「うらやましいなあ。私もそうしたいなあ」と語る人が現れた。そこで私は、「じゃあ退職して、実行してはどうですか」と話す。すると「それはできないな」と、お茶を濁す答が返ってくるのが普通だ。なかには「お金の不安がある」という返答がくる。「それはないでしょう。私と同じか、勤務年数が長いのですから、余計に条件があるのではないですか。」と話すと、苦笑が返ってくる。さらに追い打ちをかけて「大学教員職を求めて浪人している若い有望な人たちがたくさんいるのだから、その人たちにポストを譲ってはどうでしょうか。経済的条件が可能で、私のような生き方に賛同していただけるなら、ぜひ実行してください」と語った。相手は、50~60代の方々だ。

 退職して以降も、同じような会話を何度かした。しかし、実行した人にはお眼にかからない。むしろ、経済条件が厳しいにもかかわらず実行する人には何人もお会いした。
 このように、退職して新たな人生をつくりたいし、経済的にも十分可能なのに実行できないという人たちは、結構多い。そういう人のなかには、精神疾患身体疾患に悩む人も多い。だったら余計に実行したら、と思うのだが、踏み切れない人が多い。
 その理由を考えてみよう。小さな原因の一つは、金使いが荒いことだ。300万円ぐらいの自動車で、外食の際には、2000~3000円ぐらいの食事で、飲むことでの費用が月に2~3万円以上使うと言う人は、50代ぐらいに結構いた。私の生活費の3倍ぐらいかかるそうした生活では、スローライフは無理だろう。そういう方ではなく、質実に働いている人の例を考えると、一つに、「ワーカーホリックから卒業できない」(ワーカーホリックが生活習慣病化している)、もう一つに「システム依存症、コース依存症」(システムが終わると、システムから外れると、自分の道が見つけられない人)ということがある。
 これらの例は、ほとんどが男性だ。女性はもっと柔軟多様に生き方を考えている人が多いが、女性でも「ワーカーホリック病」「システム依存症、コース依存症」の人はいる。

 これらの人は、自分なりの道・生き方が基本にあって、生計のための必要上、職があるというのではない。その逆で、職があり、システム・コースがあって、それに従属した、自分の人生・生き方がある人が多い。だから、私の選択を『うらやましいけど、別世界』に感じてしまうのだ。そして、定年に近づいてようやく「定年後どうしようか」と考え始める。しかし、考え始めるのが遅すぎたのか、定年後、気が抜けてしまう人、あるいは妻にくっついてばかりいる「濡れ落ち葉」になる人などが、けっこう多そうだ。
 こうした「ワーカーホリック病」「システム依存症、コース依存症」から人々が卒業していくにはどうしたらいいのだろうか、と私は考え始めている。




写真は本文に関係なく、ヤハラヅカサからの日の出
  

Posted by 浅野誠 at 11:27Comments(0)生き方・人生

2013年01月03日

ベック 「第二の近代」「個人化」「自分自身の人生」

 最近、ドイツのベックの「第二の近代」とか「個人化」などといった論に出会うことが多い。関心を持たされる議論が多いことは確かだ。その中に、「自分自身の人生」といった論があり、「生き方」とか「人生創造」とかについて、いろいろと語り書き、ワークショップなどの形で実践してきた私としても、大いに関心を寄せて検討を始めているところだ。
 そのことについて詳しく論を展開しているらしい2002年刊行の「個人化」(ウルリッヒとベルンシュハイムの両ベックの共著)は、和訳されていない。そこで、その中味を紹介しつつ論じている武川正吾「グローバル化と個人化」(盛山和夫・上野千鶴子・武川正吾編『公共社会学2 少子高齢社会の公共性』2012年東京大学出版会)を参照したい。
 まずは、その一部を紹介しておこう。

 「グローバル化と個人化との関係を考えるうえで参考になるのは,ウルリッヒ・ベックの個人化に関する議論である.彼は,彼のいわゆる「第2の近代」のなかで必然化する「自分自身の人生」(a life of one’s own)という概念について,その特徴を15のテーゼにまとめている(中略)
 現在の社会は高度に分化しているため,個人は部分的にしか社会に統合されない.その結果,個人はもはや近代以前の社会におけるような伝統に従った生き方をすることもできなければ,「第1の近代」におけるような階級やエスニシティに準拠した生き方もできない.このため個人は「自分自身の人生」を選択し,自分自身の生き方を探し出さなければならなくなる.「自分自身の人生」が普及してくる過程を「個人化」と呼ぶならば,「第2の近代」では個人化の進行が不可避である.
 ベックが15のテーゼのなかで述べている論点は多岐に及ぶが,そのなかで注目すべき点は3つである.

 第1は,個人化とネオリベラリズムとの親和性である(中略)。自分自身の人生を生きるということは,個人が自分の伝記を選ぶことができるということであり,能動性を強いられるということでもある.そこでは自己責任という考え方が強調され,人生において失敗しても,それは個人の責任であって社会の責任ではないということになる.人生のできごとは個人の外側の要因に帰せられるのではなくて,個人の内側の「決定,非決定,不作為,能力,無能力,業績,妥協,挫折」といった要因に帰せられることになる(もちろんそれは虚偽意識であるかもしれない).このため「自分自身の人生」について語るということは「自分自身の失敗」(your own failure)について語るということでもある.これはネオリベラリズムの考え方につながる.
  (中略)

 第2の論点は,グローバル化が各国における伝統の解体と再編を進めるという点てある.ベックによれば「自分自身の人生」とは「脱伝統化された人生」である(中略).しかしこれは伝統が廃止されることを意味するのではなくて,個人が,新しく作られた伝統も含めて様々な伝統やその混成体の間での選択を強いられることを意味する.しかもこうした伝統の解体と再編は,国籍を超えた性格を帯びる.(中略)グローバル化した世界では,(中略)個人は複数の伝統や文化の問を右往左往せざるをえなくなる.もはやモデルとなるべき生き方が存在しないため,「自分自身の人生」は「実験的な人生」(experimental life)とならざるをえない.要するに,グローバル化は,各国における単一の伝統や文化を破壊するために個人は「自分自身の人生」を生きることを強いられる,すなわち,個人化が余儀なくされるということになる.

 第3の論点は,「自分白身の人生」が「反省的な人生」(reflexive life)であるという点と関連する(中略).グローバル化は前近代的な伝統を解体するだけでなく,「第1の近代」すなわち産業社会におけるカテゴリーの多くを無意味化する.例えば,グローバル化された世界のなかで,一国単位の階級はもはや個人化され重要なカテゴリーではなくなる.広大な低賃金のプールが国外に控えていて,しかも資本(そして労働)の国境を越えた移動が自由になっているという状況の下では,団体交渉をつうじた集団的労使関係を維持することはもはや困難である.その意味で(少なくとも対自的な)階級は意味を失う.エスニシティ,核家族,伝統的女性役割についても同様である.これらは「ゾンビ・カテゴリー」(ベック)としてお払い箱になるために,これらに準拠した生き方も閉ざされる.彼によれば,社会のレベルで「社会的反省――矛盾する情報の処理,対話,交渉,妥協」が必要になるのと同様,個人のレベルでも自分自身の反省的な人生が必要となってくるのである.要するに,グローバル化は,産業社会のカテゴリーを解体することによっても,個人化を促進する.」
P22~25

 同意できる論、同意を留保したい論、異議がある論などいろいろだが、私の思考に強い刺激を与える叙述である。そこで、まずは以上の紹介に留意しつつ、私が今後考えていくうえでポイントになりそうな点を並べておこう。

 1)個人化が、時代的趨勢であるとしても、その個人化がいかなる方向に向くのか、向けていくのかによって、大きな差異がある。
 2)個人化が、時代や社会の趨勢であったとしても、それは個人のレベルで具体化される。その個人レベルでの具体化にかかわって、どういう課題方法方向を提示したらよいのか。
 3)個人化ではあるが、それはイコール孤立化ではなく、多様なつながりのなかで展開される。そのつながりをどのように構想していくのか。引用のなかの第三の論点がかかわる。
 4)個人化は、「伝統の解体と再編」にかかわるという第二の論点をどのように展開するのか。
 5)強い個人になることを志向するのではなく、弱い面を持っていることを自覚し受け入れ、それを他者・自然とのつながり・共同でカバーしていく。



 ヤハラヅカサでの初日の出
  

Posted by 浅野誠 at 19:15Comments(0)生き方・人生

2013年01月02日

浩史は研究的実践者・創造的スポーツ指導者の道へ 若者物語6

 浩史は、研究生として、学部ゼミ時代から数年間指導を受けてきた教員のゼミに出席し、ゼミ内外での多様な付き合いに参加する生活を軸に1年間を送る。
 その当初、博士課程進学のための語学を含む学習、関連分野の読書生活なども展開する。指導教員の誘いもあって、土日に行われる学校教員の研究会、あるいは平日夜に行われるスポーツ指導者の語り合いの場にも顔をしばしば出す。
 そのなかで、何人かの先駆的実践者と懇意になり、その実践現場を見る機会が何度かあった。修士課程の時にも、そうした例を見る機会もあったが、ここでは全国規模での優れた実践に触れ、大きな衝撃を受ける。子どもやアスリートの自主的で創造的研究的な練習、チームの作り方、生徒間関係の作り方など、「目からウロコ」状態になることがしばしばだった。と同時に、自分のやりたかったことのイメージが鮮明になってきた。
 秋にあった大学院入学試験では結果が出せなかった。2月にも第二次入試があるのだが、見通しは明るくなかった。
 倫江とは電話・メールでのやり取りは続いていた。倫江は、3回目の挑戦で、教員採用試験合格を果たし、地元の県での正規採用を、臨時教員をしながら待っていた。

 浩史は決断を迫られていた。年末、ついに大学院博士課程入学→職業的研究者=大学教員の道を歩むのではなく、実践現場で「研究的実践者」あるいは「創造的スポーツ指導者」の道を歩むことを決断した。
 そして、地元のスポーツ関係者への手紙を書き、体育協会の仕事とか教育委員会の生涯スポーツ担当の仕事などを探し始めた。
 翌年2月、1年近くの研究生生活を経て、地元へ戻る。26歳になっていた。倫江は24歳。
 教育委員会臨時職員の仕事を得る。時間外に学生時代に指導していた地元高校の陸上競技の指導をする。新しい指導法を試み、生徒の競技実績がぐんぐん上昇する。また、研究生時代とのつながりで、全国的な研究会にも参加し、数県で構成される地域組織には何回か参加する。一度は倫江も連れていく。この年、中学教員として初任者研修で繁忙であったが、倫江も関心をもつ。
 その年の年末には、倫江との共同生活を開始し、近いうちに結婚することにした。

 地元とのつながりが増すなかで、健康・スポーツにかかわるある地域NPO組織の人と懇意になる。いろいろと語り合い、そこに浩史が考えていたことに通じるものを感じ、相手も、浩史の考え方に関心を示す。そして、2、3度、その組織が運営する会を見学したりもした。
 翌春、そのNPO組織の拡充計画のなかで、浩史もメンバーとして参加することになった。しかし、財政基盤が弱い組織だったので、主収入は行政からの委託金であり、浩史は10万円内外の収入にとどまりそうだった。それでも、やりたいことができそうなので、参加したのだった。倫江の収入を主にした二人の生活だった。そして、夏には友人・親戚だけのささやかな結婚式を挙げる。
 こうして、新たなステージが展開し始める。




写真は本文に関係なく、我が庭のツワブキ
  

Posted by 浅野誠 at 11:22Comments(0)生き方・人生