プロフィール
浅野誠
浅野誠
1972-90年沖縄大学・琉球大学に勤務
1990-2003年中京大学に勤務
2004年より沖縄生活再開
玉城の絶景のなかで田舎暮らし
自然と人々とつながりつつ人生創造
執筆活動、講演・ワークショップを全国にて行う
各大学で非常勤で授業。沖縄大学客員教授
アメラジアンスクールインオキナワ相談役
最近著 『<生き方>を創る教育』(大月書店)
『ワークショップガイド』(アクアコーラル企画)
『沖縄 田舎暮らし』(アクアコーラル企画)
 
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2009年06月12日

比嘉春潮顕彰碑


 西原図書館前
 まだ新しい。
 私の沖縄教育史研究でも、彼の著作から学んだものは多い。
 顕彰に値する人だと思う。  
Posted by 浅野誠 at 14:22Comments(0)沖縄

2009年06月12日

立派な西原図書館


 西原町史執筆準備のため、訪問
 昔住んでいた小波津団地からそう遠くない 
  
Posted by 浅野誠 at 12:35Comments(0)沖縄

2009年06月10日

突然西原町史執筆要請


 急な事情で、三人の方が来宅されて依頼された
 西原はかって13年間住んでいた懐かしいところ
 お一人は、かってお目にかかった記憶がよみがえった
 もうお一人は、私の授業を受講なさったとのこと
  
Posted by 浅野誠 at 16:38Comments(0)沖縄

2009年05月27日

ウチナーグチ抑圧とウチナー音楽隆盛

 ウチナーグチを抑圧禁止する政策が明治後半に盛んに行われ、悪名高き方言札も登場した。その同じ時期、村芝居、ウチナー演劇が広がり盛んになる。沖縄民謡も盛んになっていく。
 後者では、前者とは対照的にウチナーグチが使われる。

 このことをどう考えるのか、このことに、私はまだ深まっていないので、多くの人に教えてもらいたいと思っている。
 近藤健一郎編『方言札――ことばと身体』(社会評論社2008年)には、この時期の沖縄における言語教育問題と音楽(教育)問題にかかわる論考がおさめられているが、この両者を対比する研究ではない。
 最近、こうした分野に、若い研究者が続出しているので、期待している。

 この問題から派生、ないしは関連する問題には、いろいろある。
 たとえば、
1)西洋音楽と琉球音楽との関係。この分野は、宮良長包研究などの蓄積は存在するが。
2)琉球古典音楽舞踊といわれるものと明治期に広まる「民衆」音楽・演劇との関係。
3)明治末期におこなわれた風俗改良運動は、沖縄演劇などを抑えるものがあったが、それがどうなっていったか。
4)明治末から人々の服装に変化がうまれてくるが、このことと、以上の問題との関係。たとえば、舞台で三線をする人の服装が、私には気になることが多い。
5)沖縄の西洋音楽におけるクラシックとポップ・ジャズなどの関連。それらと沖縄音楽のからみ。
6)今日、ウチナーグチの「さびれ」状況と対照的に、沖縄音楽は隆盛の「極み」とでもいえそうな状況にある。明治期以降も含めて、その後の展開をどう考えるか。
7)こういう状況と、施策、教育界、人々の動向と関連
8)今後の創造の課題・展望

 ついでにいうと、シュガーホールにおける、わけても町民・市民ミュージカルは、こうした問題へのおおきな実践的挑戦のようにも見える。

 いろいろとわからないことばかりなのに、興味をひく問題が私の前で行列している。そして、こうした問題の追究には、これまでの研究のアプローチや枠組みでは難しく、新たなものが要求されているとも感じている。

  
Posted by 浅野誠 at 17:13Comments(0)沖縄

2009年04月09日

田中史生「越境の古代史」(2009年ちくま新書)を読む

  グスク時代以前の沖縄地域の実像把握のための学習を続けている。南西諸島の北に位置する列島の実像把握も関連する。先月紹介した奄美からの列島把握もずいぶん参考になった。
  今回は、「倭」をめぐる実像把握、5世紀ころから11世紀ころについてであり、当然のことながら、沖縄地域もかかわる。

  まず、この実像把握のうえで、示唆に富む次のような指摘を紹介しよう。

  「高句麗があった時代、列島には『日本』と称した国もない。にもかかわらず『日本史』は現在の国境と重なり合う形で、紀元前から一つの単位としてあったというのならば、それは古代史の客観的な研究から導き出された結論ではない。最初から近代国民国家の視点で意図的に設定された枠組みなのである。」P11

  にもかかわらず、近代的な「国民国家」的視点で、古代史を把握しようとする流れが強力に存在する、というよりも、それが支配的になって、無意識のうちに大多数の人がその把握のとりこになっているのだが、それはなぜだろうか。

  「前近代の王国の時代、王権による支配の正統性は神や神話が支え、保証してくれた。まさに王権神授の世界である。しかし神や神話が力を失った近代、王から主権を奪った国民は、その一定の範囲で括られた国民だけに許される主権を、神授説とは別の方法で正統化しなければならない。(中略)近代、国民・民族は歴史的運命性のもとに、ある一定の範囲で切り取られれ束ねられた語られるものとなった。だから国民・民族を支える歴史も、まるで国民や領土のように切り取られ、主権のように排他的に占有できる対象とイメージされてしまうのだ」P9

  そして、次のような把握がつくられてきた。
  「『倭=日本』を“内”とし、それをとりまく国々を“外”とする内外二層構造を基本としている。しかもここで倭と日本をイコールで結んだように、古代の倭と日本は、まるで同一身体の幼少期と青年期でもあるかのように、単線的な成長をとげる明確な一単位として扱われる。」P12

  そして、「列島の倭人社会は『倭人社会』と一括りにできないほどの多様性を持ちながら、政治・経済・文化のあらゆる面で、列島外諸地域からもたらされる資源・技術・知識に大きく依存した、いわば共通の国際交流を必要とした社会であった。」P36と指摘されるような実像を、多様な角度と史料をもって提示するのが、この本の本体である。

  こうした指摘は、ひるがえって沖縄・琉球についてもいえる。沖縄・琉球も「ずっと」同じ一つの単位として存在してきたものではないのである。15世紀統一琉球王国が成立しても、その領域は限られていたし、伸縮していた。そして、アマミキヨなどの神話、およびそれにかかわる儀式などによって、王国は権威づけられてきた。だから、ヤハラヅカサ、斎場御嶽、イザイホーなども、その王国とのかかわりで実像把握する必要がある。王国神話として存在するのであって、少なくとも13世紀以前の列島の実像とは距離がある、ないしは関係ないのである。

  そしてまた、一連の叙述にもとづいて、また近年の奄美研究にもとづいて、次のような注目すべき指摘をする。
  「近年の考古学が、沖縄本島を中心に国際社会を股にかけた“琉球国の歴史”のイメージを覆し、『日本』と地理的に近い、北の奄美諸島を軸に活発に動く一二世紀以前の奄美・沖縄諸島史をとらえたのは、琉球列島の歴史においても、異文化間の円滑な交流・交易に、政治的な管理が極めて重要な意味・役割をもったことは、もはや疑いようがない。」P218~9
 
  これなどは、従来の「定説」を覆す問題提起であり、今後、論議ないしは論争が展開していくことだろう。

  この本の最後には、以下のように問題提起をまとめている。
  「海域を活動の舞台とし、様々な地域と関係を結んだ交易者たちが、海域と接する一国政治から解き放たれていたというわけではないし、政治的に管理された“交易港”が健在だったからといって、政治的管理が基本的に貫徹していたと判断することもできない。古代人たちは、互いをつなぐ驚くほど多様な社会的装置を持ち、それを駆使し、使い分けて、越境的なネットワークを動かし、ネットワークを変形させていた。そのネットワークは、どこの国の歴史にも専属せず、それでいて様々な国の歴史の影響をまともに受ける。しかもそのネットワークは、ある地域の社会変動をすぐさま別の地域へと運び、各地の歴史を連鎖の歴史へと導く。私たちがこのダイナミックな“つながり”に目を向けるとき、あらゆる歴史が“私たち”の前に開かれるはずだと思うのである。」P222~3
  
Posted by 浅野誠 at 10:09Comments(0)沖縄

2009年03月20日

ウージ染めタペストリー


 「アトリエ色彩…新垣幸子」作
 タイトルは「ゴーヤ」
 買ってしまいました
 書斎を飾る

 ウージとはもちろんサトウキビのこと
  
Posted by 浅野誠 at 15:30Comments(0)沖縄

2009年03月20日

ウージ染め展示即売


瀬長島「空の駅」
室内に入って、息を飲む美しさ
緑の鮮やかさ
さまざまなウージ染め作品が並ぶ

ケータイカメラでは、緑色がとても淡く出ているが、原色は、緑一色という感じ

  
Posted by 浅野誠 at 14:10Comments(0)沖縄

2009年03月20日

農協女性部のレストラン


 道の駅豊崎(糸満バイパス沿い)
 安くて結構美味しい
 とくに餃子
 3種類の店が並ぶ

 他に農産物・加工物の販売  
Posted by 浅野誠 at 13:06Comments(0)沖縄

2009年03月14日

倭寇と沖縄  「琉球王国誕生--奄美」本2

   この本の問題提起の重要な一つは、倭寇・倭寇的集団など、朝鮮・日本・中国、そして琉球列島を結ぶ人々の流れのなかに、沖縄を位置づけていることだ。
   沖縄のなかに長く住みつづけてきた人々というよりも、こうした多様な人々の流れのなかで、沖縄を拠点にした人々が、沖縄での覇権を競い、琉球王国の覇権の変遷を生みだしたというわけだ。
   そして、南山というが、そこには二つがあり、実質的には四つの覇権が存在してきた。四つがあるにもかかわらず、三つの枠組みで理解するのには、朝鮮半島、さらには内陸アジアの文化的影響が認められるとものべている。
  
  倭寇・倭寇的集団の人々について、「『倭寇』と呼ばれる存在は、日朝の海域をまたぐ地域を拠点に活動していた、日本や朝鮮という『国家』や『民俗』の枠組みから離脱した人々を含む集団だったのである」と述べる。
  また、「倭寇の『受け皿』として琉球を利用したという意味は、那覇が倭寇の略奪してきた被虜人たちの『奴隷市場』であったことなどに示唆されるように、実は琉球そのものが倭寇と一体化した存在であったために、(明は--引用者補)朝貢面で琉球を非常に優遇することで、海賊行為を抑えようとした」とも書いている。

  倭寇的集団ともからんで、十一世紀ころ奄美諸島を拠点とする勢力(とくに喜界島)が有力で、それらが沖縄にも勢力を伸ばしていったという文脈で論じられていく。
  そして、時代が少しくだって、倭寇そのものの活動が活発になるころの15世紀、「第一尚氏は、奄美諸島社会を迂回しつつ、沖永良部島を足がかりに与論島、沖縄本島北部の辺戸などをへて、北から南下したと考えたい」という仮説を提出している。
  第一尚氏の末期の王尚徳の神号は「八幡按司」であるが、「八幡神は倭寇の守護神である」と指摘し「尚徳その人が倭寇」である可能性にも言及している。
    (玉城の富里や當山には、第一尚氏末期の人々の遺跡などがあり、また、現在「八幡」の姓を名乗る人も多い。)
  また、「金丸が、今帰仁の倭寇勢力を背後に置きつつ王権を奪取したと考えることができる」というように、「第二尚氏の成立には奄美の勢力が関与していた可能性を考えたい」とものべている。

  「倭寇」というと「物騒」な雰囲気を感じるかもしれないが、そのころは、軍事的であったにせよ、平和的な交易であったにせよ、海を媒介にした広い世界の大きな交流のなかに、沖縄が存在していたのである。そうした規模が大きい世界のなかに、16世紀まで、少なくとも16世紀前半までの沖縄は存在していたのである。
  本書の個々の問題提起・仮説の正否を論ずる資格は、私にはないが、こうした問題提起の視点から、沖縄史を把握することは重要な意味をもっていることは確かであろう。
 
     
Posted by 浅野誠 at 12:58Comments(0)沖縄

2009年03月14日

吉成直樹・福寛美『琉球王国誕生--奄美諸島史から』を読む

  薩摩の琉球支配開始から400年になる。それ以降、奄美支配は複雑な経過をたどる。
  しかし、沖縄側からの視点では、沖縄を中心に見て、奄美をそれにつらなるものと見て、奄美それ自体に注目して見る点が弱かったようだ。
  そんななか、この本(2007年森話社刊)は、逆に奄美の側からを沖縄・琉球を見るという視点で論を展開する。
  「これまでの奄美諸島史の位置づけは、歴史学、考古学においては、沖縄・琉球史の『付け足し』程度の意味しかもっていなかったとしても過言ではない。そうした立場にたてば、沖縄中心史観を相対化する試みであると言い換えてもよい」P290
  とものべているが、
  興味深く新鮮な問題提起が続出である。
  論争的な提案も多いとは思うが、注目したい指摘が多い。
  
  「日本の古代~中世初期に相当する時期において沖縄社会より奄美社会のほうがはるかに本土とのかかわりの深かった地域だった」 P8
  「鉄器の使用という点に限ってみれば、奄美社会のほうが古くから使用が始まる」P8
  「十一世紀頃という時期を考えれば、沖縄島を中心とするグスク時代が、沖縄島内部の発展によって開始されたのではなく、奄美社会が膨張するなど、ひとつの画期を迎えることによって開始されたことを示唆する」P9
  「本土中世人に近くなる身体的変化もまた、グスク時代の開始が沖縄島社会の内的な発展によってもたらされたのではないことを示している。そればかりか、人骨に大きな変化がみられるのであれば、そうした人々が担っていた文化の流入による新たな文化の枠組みの形成、さらにいえば琉球語の形成が、この時期に起こったとしても不思議ではないことになる」P11
  「十一世紀頃から琉球列島に流通が始まるカムィ焼(産地は徳之島)、滑石製石鍋(産地は長崎県西彼杵半島)、白磁・青磁、鉄などは、中国の江南や朝鮮半島とも交渉を持っていたと考えられる北からの勢力によってもたらされた。そして、それらの勢力はやがて沖縄諸島以南に交易拠点をつくったが、その交易拠点とかかわりを持っていたのが沖縄諸島で十三世紀頃から大型化するグスクだったのではないか。」P12
  
 といった具合にである。
 いろいろと考えさせられることが多い。2~3回連載してみたい。
  
Posted by 浅野誠 at 10:30Comments(0)沖縄

2009年02月14日

字公民館本9 シマ起こし 私の個人的関心 スーマチ

   長い連載も、今回が最後だ。
   私自身がいま、「シマ」に暮らしている。他の大部分のシマと比べたら、人口移動が少ないところだ。「シマ」以外からの移住者は、Uターンを除くと、10%ぐらいにとどまっている。
   いろいろと聞いていくと、歴史的に継承されてきた行事の継承が難しい状態にある。私の単行本「沖縄田舎暮らし」では「ジーハンタ」という四年に一回の総出の行事を紹介したが、その他の行事ということでは、綱引きぐらいにとどまっている。青年会も休業状態が長い。
   ということで、かって存在していた行事の復活も含めて「シマ起こし」についての潜在的な関心があるように思う。私がいろいろとたずねると、喜んで語ってくれる方が多い。先日もたくさんの話を聞いた。
   また、南城市全体を通しても、「シマ」の継承・復活・発展も含めて、町起こしが大きなテーマとなっている。ということもあって、2年前の南城市と琉球新報の共催で行われた「南城起こしシンポ」に、私はパネリストとして参加した。その後も、南城市のそうした集まりがあれば、できるだけ参加するようにしている。

   このような私の個人的関心もあって、今回の一連の報告書は大変興味をもたされ、ヒントをえようとするなかで、こんなに長い連載になってしまったのだ。
   さて、報告書の「発刊にあたって」で、研究代表者の松田さんは、こんな風に書いている。
  「学習機能に専門化してやせ細った嫌いのある公立公民館に対して、専門化した学習機能は弱いものの、自治活動と文化活動が融合し地域の共同性に働きかけることを通じて学んでいる字公民館の経験は、現代公民館論の構築に有益なものとなるのではないだろうか。」と提起している。
  そして、金武町並里公民館、首里石嶺町での調査経験もふまえて、具志川市の上平良川公民館について報告している。
  また、小林氏は、読谷村の、楚辺の字誌づくり、大添公民館づくり、ざきみ文庫と座喜味子ども会の報告を、それにかかわる人々のライフヒストリーにも関心をよせつつ、報告している。
  読谷村については、昨年6月に社会教育関係者多数の参加で、社会教育諸団体の旺盛な活動展開をつくりだすためのワークショップを、私自身がコーディネイターとして行ったこともあって、興味深いものがあった。関係職員は年々難しくなっていると話されていたが、読谷村は、個人としても村としても長年の蓄積がとても大きく、すごい力量をもっているとその時感じた。

  このように、この報告書は、「シマづくり」「地域づくり」に関心をもつ私にとって、貴重な示唆をたくさん与えてくれた。そしてその中味としての、「自治活動と文化活動」の「融合」した展開をいかにすすめていくか。そしてそのなかでのライフヒストリー形成にそれらの活動がどのようにかかわっていくのか。そこには、伝統の継承ということだけでなく、新たな創造的側面が多様に存在している。
  そこには、その「シマ」に生まれて以来ずっと住んでいた人ばかりではない。たとえば「シマ」に住む女性は、今日では、その大半が「シマ」以外からの移住者である。その女性たちが、字公民館で多様に活動を展開していることに注目したい。と同時に、「シマ」外から移住したきた男性・家族も近年では多い。都市地域では、その方々が多数を占めることさえある。今日も、私は別の報告が紹介していた南風原町の喜屋武に所用ででかけたが、そこも各地から来た方々が多そうである。わが集落近隣でも、移住者が「シマ」人口の2~3割以上を占める例は、珍しくもない。
  そういうなかで、「シマ起こし」をどう展開するのか、それは新しい創造の課題である。連載の別の記事で書いた「結社と共同体」という問題はそうしたことに深くかかわる。またシマの共同性のなかで個人がどうかかわるか、ということもそうである。読谷の報告のなかで登場してくるライフヒストリーなどはそのことと深くかかわる。
  そのあたりについて出された問題提起と、多様膨大に報告されたケースとをつきあわせる分析は、今回の報告書のなかではほぼ記述されていない。それについては、これからの課題として存在しているように見受ける。今後の展開を期待したい。

  ※ 読谷の座喜味についての報告のなかで、「総巻スーマチ」の報告がでてくる。このスーマチに私は関心をもっている。南部地域では、大型行事としては、エイサーよりも、このスーマチが各地で存在していたが、近年ではごく限られたものになっている、と聞く。そしてそのことを惜しむ話をよく聞く。私の住む中山も、他のシマから、技を「盗み」にくるほどのところであったという。この話を40代後半以上の方にすると、記憶に残っており、生き生きと話されることが多い。
   ところで、私が聞いたところでは、スーマチは「潮巻」の意味で使用されていた。潮が渦巻くようにして行われるからだ。
   そこで、スーマチをインターネットで調べたら、2006年12月に座喜味で16年ぶりに復活させたという琉球新報の報道を見つけた。そこでは、スーマチの語源としては、「渦巻き」と「総巻き」の二つの説があると書かれていた。

        
Posted by 浅野誠 at 20:17Comments(0)沖縄

2009年02月13日

字公民館本8 集落(字)育英奨学活動 

   一連の論文のなかで、一つだけこのテーマを扱っている。20年以上前にいろいろとお世話になった小林文人氏のものである。
   字誌などによって、戦前戦後を通して、集落の育英奨学活動を検討している。

   本論の最後に、次のような指摘がなされている。
   「第二は、沖縄独自の伝統的なユイマール(結い、相扶の交換)やモヤイ(模合)の思想や意識が、集落組織を基盤として、育英会活動に息づいているのではないか。近代公教育制度に向けての進学・育英への協同の取り組みは、いわば「学校模合」とでも言えようか。
   第三は、学事奨励会から育英会制度への歴史的系譜、さらにその継承と発展の流れに注目しておきたい。現代の育英奨学制度が次なる集落共同活動への歴史的展開を呼び出していく可能性もみえてくる。具体的に、集落育英会の奨学金貸与は、歴史的に継承され蓄積されて、集落の資産として次なる活動の共同資金となっていくに違いない。
   第四に、集落共同の社会的・教育機能としての育英奨学制度は、曲折をたどりつつ、そのことを通して、集落(シマ)の社会的結合に大きく寄与してきた側面があった。」第3集P19

   「学校模合」とは、「言いえて妙」である。
   この育英奨学は、とくに戦後かなり活発に行われたことである。それは、戦争による集落(シマ)の危機的状況を、集落共同の取り組みのなかで、乗りこえてきた集落が、さらなる発展を期して、「集落を担っていく」ないしは「集落を内外から育て励ましていく」存在として、集落の子ども・若者への期待が反映しているといえよう。
   こういう意味で、育英奨学は、「シマ起こし=地域起こし」と結びついたいたのである。そしてまた、子ども・若者の教育の担い手として、集落がかなりの部分を担っていたことをも意味していたのである。

   しかし、「復帰」後、とくに80年代以降、事態が大きく変化していく。教育の担い手としての集落の位置が急激に低下していくのである。それに代わって、家庭が果たす位置が急激に高まり、圧倒的に家庭が支える「仕事」となっていったのである。
   かって、東井義雄が、高度経済成長にはいる時期に、「村を育てる学力」という問題提起をしたが、それは「村を捨てる学力」になっている事態を憂えたからである。その憂いが、沖縄の場合、1980年代には一般化していく。
   このプロセスは、育英奨学だけに限らない。シマ(集落)そのものが弱体化していく過程と並行していた。無論、そのなかで、逆にというか、だからこそ、というか、シマ(集落)の「復活」をはかる動きも、限られてはいるとはいえ、芽生えてくる。
   そこにところに著者は「可能性」を見出し、「期待」しているのであろう。

   だが、「シマ」にとって事態は厳しい。と同時に、このところの経済状況のなかで、「シマ」に戻る、「シマ」をあてにしたい人々が激増することが予想される。典型的には「キセツ」からもどる人たちである。

   そうしたなかで、どのような「シマ」の形成が期待できるのか、あるいは「シマ」の形成に期待すべきではないか。
   それは、一つ前の記事で書いて、コミュニティとアソシエーション、そして個人の問題を、「シマ」とかかわってどうとらえるかとも深くかかわる。
  
Posted by 浅野誠 at 13:59Comments(0)沖縄

2009年02月12日

字公民館本7  字誌  個人 共同体と結社  

   沖縄の字誌制作にかかわって、そこでの個人・共同体・結社などという問題にかかわって、いろいろと言及されている。
   いくつかを紹介しよう。

  1) 「字誌が集落の総意によるとはいってもその実質的な発案や具体的な編集過程およびその後の刊行に至るまでの経緯では、必ずしも共同体的とはいえない結社的な展開が見られる。沖縄の集落で結社的な要素が拡大しながら、それを共同的要素が包み込んでいるという指摘をしたように、字誌の成り立ちの基本に関わることでありさらに検討の余地が残されているというべきだろう。」第一集P12
  2) 「『専門家ではない歴史の素人たる地域の住民がつくった市町村史(地域史)』として、高い評価の対象になることはよく理解できる。しかし、ここでこの見方にあえて異を唱えてみたいのは(中略)、この傾向がゆえに個人ないしは共同的に見つけだされる『価値や意味』を自己表現し問題適(ママ)しようとする要素が後退するのではないかということである。」第一集P16
  3) 「沖縄の演劇や音楽の活動は日本の他の地方に比べてもはるかに活発であるというべきであるが、新しい動きは都市を中心にして展開しておりシマ社会の生活や伝統による縛りからは解放されているように見える。宜野座区のように古典の組踊りに加えて現代劇の組踊りが作られたりする例もあるが、辺野古区のように一時途絶えていた芸能を復活させることに関心が集中するというのが、全般的な動きではなかろうか。このことを批判するつもりはないが、このような傾向はこれらの取り組みを内側に閉じ込め外に向けて自己主張する要素を薄める原因になっているよにう思われる。」第一集P16
  4) 「第一に指摘されるのは、字誌がシマの共同の事業として展開する公共の事業であり、そこに個人的な意見をさしはさむ余地が無いことである。しかしより根本的な理由として第二に、東洋の社会とりわけ沖縄では西洋の社会との原理上の違いがあることが強調されるべきだろう。後者が『結構』を原理とし、自律した個人が作る集合体として集団が成立するのに対して、前者では個の存在は集団ないしは共同の生活の中に隠されている。住民は共同の生活を維持するために個としての自分を表現することについて、一定の制限を加える場面が多くあり共同の語彙を自分よりも優先させることが多い。」第二集P38
  5) 「私のこの間の関心は、フランスの教育的共同生活史の議論を基に字誌を考えてみることにあった。その前提は『共同性』を強調することの多い沖縄のシマ社会にも、やはり『私』ないしは『個人』が存在するのではないかということであった。そしてうえで見た今回の共同調査での経験は、こうしたヨーロッパモデルを沖縄に応用しようという方法論的な意味と限界を改めて明らかにしてくれたように思う。」第三集P62
 
  こうした問題提起に私が注目するのは、私自身がそのシマ社会に生活し、個人・共同体・結社といったテーマの渦中にいるということがあるし、この問題は現代沖縄にとって重要なテーマであると私自身も考えるからだ。
  この問題提起は重要であることに異論はない。しかし、5)にも多少触れられているように、この問題へのアプローチとして、字誌を素材にし、ヨーロッパモデルを応用するということが適切であったかどうか、は問わなくてはならない。

  その意味では、シマ社会をめぐる、もっと他のものを素材にした研究が必要ではないか、と思う。字誌については、2)でも触れられているように、フランスの教育的共同生活史と対比して検討する素材ではないからである。この対比をするなら、もっと別のものを選定すべきだろう。無論、かなりの無理を承知で対比することによって、字誌制作にかかわる人々に対して、新鮮な問題提起を与えたといえるかもしれない。

  上記の一連の紹介文の底には、共同体ないしは共同的なものから、個人をいかに生みだすか・つくりだすか、あるいは結社的なものをいかに見出すのか、つくりだすのか、それらとは対照的に共同体ないしは共同的なものに対して、肯定的には言及しない、というものが存在しているように思う。そのテーマは、現代のシマ社会を見るうえで、有効ではある。では、共同体ないしは共同的なものをどうするのか。そのあたりの言及がなければ、シマ的なものは否定的なものとして、読者にはとらえられかねない。
  執筆者によって多様性があるが、そのあたりはどうなのであろうか。

  シマ社会が、それを肯定するのか否定するのか、その評価は別にして、沖縄社会のなかでは、かなりの重みをもって「今なお」存在している事実がある。そのシマ社会の解体を主張するのか、それともその再編・改編を主張するのか、その際に、結社的なものと共同体的なものとの関係をどう把握するのか。そして、個人と結社・共同体との関係をどう把握しつつ、提案していくのか。
  
  興味深い問題に迫りながらも、こうしたことに対してのイメージが読みとりにくいものとなっているのが、私としては残念である。
  なお、私自身は、こうした問題にかかわって1980年代半ばから、教育実践に焦点化して、たくさん述べつづけてきた。その際、共同体と結社という対比もあるが、制度と結社、全員加入制と任意加入制などという対比も使用してきた。
  最近のものでいうと、「〈生き方〉を創る教育」(大月書店2004年)を参照していただけたら幸いである。

 
  
     
Posted by 浅野誠 at 12:07Comments(0)沖縄

2009年02月10日

字公民館本6  字誌とフランスの共同的生活史  

  本研究報告のなかで、大きな比重を占めるのは、字誌についてである。
  沖縄の字の30%くらいが字誌を出しているという。昨年10月の県産本フェアでも字誌コーナーが設けられていた。私も何冊か買おうかなと思ったが、価格が高いし、近くの図書館でも読めると思って、買うのはやめた。
  玉城では、現在4つの字が出しており、最近も一つの字が発刊の運びになっているようだ。
  これらは、この報告書でも書かれているように、市町村史のつながりのなかでだされるようになったケースが多いし、スタイルは、市町村史風である。

  そうした字誌に対して、この報告書は、フランスの共同的生活史との比較というまったくユニークな視点から検討を深めている。そして、共同的生活史に取り組んでいるメンバーもフランスから沖縄に来て、シンポジウムに参加し、報告書にも執筆している。

   私自身は、この共同的生活史というのはまったく知らなかった。ただ、ここ20年ぐらいか、世界的に注目され広がっているナラティヴ的な取り組みとつらなり、その多くは社会構築主義的要素を多分にもっているようだ。そう考えると、私にとっては多少はなじみがでてくる。

   ただ、字誌の制作者・執筆者たちには、そのような問題意識があるわけではなく、それらせ、あくまでも研究報告者たちの視点であるのだが。そして、字誌の制作者・執筆者たちは、情報提供者であり、これらのフランスの共同的生活史のように、研究メンバーとして加わって研究報告をしているわけではない。だから、その方たちの見解はわからない。
   ※ ただし、字誌作成をサポートしてきた方が一人、この研究メンバーに参加しておられるが、この比較についての対応の記述は登場していない。


   さて、この比較は、いくつかの点で注目される。
   一つは、フランスの共同的生活史が、教育的意図の存在、実践性大、集団の意味の発見と構築、客観的知識・学問を主たる問題にしない・経験の重視、とされるのに対して、
   字誌が、教育的意図の不在(希薄)、実践性小、集団の記録・村の復元、経験的だが、学問志向、とされることにある。

   その通りであろう。
   これは、各々がもつ性格・目的からして異なるから当然だろう。
   その意味では、比較そのものが、かなり外在的な性格をもっている。当事者が比較に希望しているわけでもなく、比較に意味を見出しているわけではない。
   にもかかわらず、この比較を行ったということは、研究報告者たちの強い興味関心、そして、間接的な形であるにせよ、字誌の制作者執筆者などの関係者に対する、強い願い・期待・提案といったものを背後にもっているからであろう。

   だから、字誌が広汎の住民が作成に参加していることに注目しているのだ。そして、それが客観的事実のみにとどまっているのを「惜しむ」トーンが強烈に存在している。社会教育的意味をもって、作成者たちがかかわっているわけではないのにもかかわらず、社会教育的な意味づけと提案を行っている。
   とすれば、この研究報告書の裏側に、ないしは、報告書発行後の継続的な課題として、かなりの取り組み・働きかけが行われているだろうと、容易に推測できる。
   そのあたりを知りたいものだ。
   
   この報告書に登場してくる字誌についての調査事例は、読谷など中北部が多い。かつ、軍用地の存在とからんだ一定の財政基盤があり、それをもとに本格的な字誌を作成した事例が多い。
   私が住む南部では、字誌は少ないという。私が住む玉城では、2~3割といった感じである。
   ちなみに、私は、住んでいる字中山の人たち相手に、酒飲み話でのことだが、「中山物語」を芝居やミュージカル風にやりたいね、といつも語っている。そして、しばしば昔話を聞いたりもしている。玉城村史には、民話編があって、年長者からの聞きがたり記録がある。それをもとに、私が話すと、そんなことは知らないという人ばかりだ。
   と同時に、私は、「字起こし」「玉城起こし」「南城起こし」「沖縄起こし」に強い関心をもっている。そしてそれを、「人生起こし」「地球起こし」と結びつけて考えている。そんな意味では、フランスの共同的生活史のアプローチは興味深い。

   こんなことに似たこととして、シュガーホールでの地域オペラづくりは興味深い。地域の実在の人物をもとに物語をつくり、オペラをつくったのだ。「肝高のあまわり」などもそうした流れとつながるだろう。
   今、必要なのは、沖縄の地域・字の歴史を、「考古学」的に復元するにとどまらず、地域起こしの文脈のなかで、今日という時点で創造していくことだ。

   その意味では、この研究報告は興味深いものがある。と同時に、研究者たちが、どのような提案・実践を行ってきたか、そして今後行おうとしているか、そのことに強い興味が抱かれる。その作業がなければ、「情報の収奪」的傾向の強い近年の沖縄研究の多くと同じことになってしまう。
   
   もう一つの注目点は、コミュニティとアソシエーションとか、個人と共同とかいう用語を使って行われている分析についてである。それは、次回だ。
  
Posted by 浅野誠 at 12:58Comments(0)沖縄

2009年01月31日

合計特殊出生率 南城市県内41市町村中38位、なぜ?

  今朝の新聞報道。
  合計特殊出生率(女性一人が産む子どもの数)の上位30市町村のうち、沖縄が12を占めるとのこと。

  ところが、南城市は、1.59で、県内では下から4位なのだ。

  私は、家族単位の個人的色彩の強い都市地域では低く、シマの共同社会がまだ強い農村・離島地域では高いと予想していた。しかし、「順位表」を見ると、そうといもいいきれない。
  たとえば、同じ八重山でも、石垣市は5位で、竹富町は35位なのだ。
  島尻でいうと、糸満市は10位、南風原町は13位に対して、与那原町は34位、そして南城市が38位なのだ。
  那覇市は最後の41位なのだが。

  これにはどのような要因が働いているのか、専門家の分析を聞きたいものだ。

     
Posted by 浅野誠 at 11:28Comments(0)沖縄

2009年01月29日

どんな沖縄イメージを発信するか

  多田本を読んでいて、自分ならどんな沖縄イメージを発信するだろうか、ということを考えさせられた。

  多田本は、観光、ツーリストに照準をあわせた沖縄イメージであった。
  この他にも、いろいろなレベルで沖縄イメージを語ることができる。
  たとえば、政治経済でいうと、反戦平和、開発、格差、貧困、反権力、差別などの言葉が登場してこよう。
  文化でいうと、民謡・舞踊・三線・エイサー、グスク、御嶽などがでてこよう。
  自然レベルでいうと、島、珊瑚礁、亜熱帯、台風、・・・・
  生活レベルでいうと、ゆったり、のんびり、暖か、サトウキビ、癒し・・・
  他にも、産業レベル、人間関係レベル、教育レベル、生物レベル、などといろいろある。

  こんないろいろなレベルを考えていると、興味は尽きない。

  我が家にも、本土や外国からの訪問者が多い。
  そんなかたたちに、どんな沖縄イメージを提示するのか。というときに、改めて、この沖縄イメージの何を出すのか、ということを考えさせられることがある。
  もう30年以上前になるが、琉球大学の同僚が、大規模な教育研究の集会に参加する本土からの訪問者への、沖縄のプレゼンテーションをするということで、亜熱帯、島、王国、戦争、基地という、「沖縄の五つの顔」を提出した。
  それをふりかえりながら、今度くる訪問者に何を出そうかなと思い描く。
  
  私の場合、今強調したいのは、たとえば人間関係についてのイメージだ。
  また、「沖縄起こし」、沖縄をどうしたいのか、という人々の願いのようなもののイメージも提出したい。
  それらは、いずれも肯定的な方向で考えている。言い換えると、沖縄のもつ豊かさを提出する方向だ。

  沖縄は数百年にわたって、否定的イメージを日本・本土から浴びせかけられ、それを内のものとするリーダーたちが強く仕切ってきた歴史があり、そのなかで沖縄の自己認識を否定的なものにする傾向が強くあったからだ。
  このモチーフは、私が沖縄に住みはじめた1972年から間もないころよりもちはじめ、それ以来つづくモチーフだ。
  このことを強調したのは、『沖縄教育の反省と提案』(1983年明治図書)であった。

  少しずつ、私の沖縄研究作業を再開しつつあるが、どのような構想になるのかは、まだまだわからないが、こんなことも考えながら、すすめたいと思っている。
  
Posted by 浅野誠 at 17:48Comments(0)沖縄

2009年01月28日

多田本9 観光はいったん否定されることを通して受け入れられる

  長くなった連載もいよいよ最後だ。
  第9章「八重山の現在」と終章「沖縄と日本」では、沖縄の観光のあり方が追求される。
  そのなかで、印象深い点をいくつか紹介しよう。

  裏石垣での移住者にかかわって、「『移住者による、北部海岸線のコロニアルでロハスな領有』なるものが、ウチナーとヤマトの長い非対称的な力関係の歴史によって基礎づけられた、無意識の植民地主義を含んだものだとしたら?」という問いかけ。
  私も同じような疑問を感じることがある。一泊費用だけで、沖縄では一カ月暮らせるほどの高額で泊まるリゾートホテルが広がっている。そうした富裕層のツーリストたち、そしてそれにつらなる形での移住。「自然の収奪」としかいえそうにない観光。私がいう「人々とつながる」を脱落させた移住にもそれを感じることがある。

  そうした観光・移住は、八重山や本島西海岸にしばしば見られるが、私の住む南城市内では、なぜか、そうしたケースは少ない。それだけに観光上の収入が少ないかもしれない。
  「自然保護の立場から開発反対」を主張する「先駆的移住民」という表現がでてくる。3~4年前、浜川御嶽周辺の開発計画が現実化しそうな時、それらを意識して、宮本亜門さんなどの呼びかけによって「島や宝」コンサートが行われた。その折、私は、竹富島の経験をもとにして、そこからの報告などの企画があってもいいのではないか、と提案したことがある。
  そして、実際、感動的な生活芸能が披露されるとともに、竹富を「守っている」ことについてのとても印象的な語りがあった。

  その竹富について、著者は「竹富島はまさに観光で生計を立てている島でありながら、その芸能や祭りは、世俗的な観光化を周到に遠ざけることで、伝統的な価値を保っている」と指摘される。
  また、「世俗化して価値が下がるのが『観光』だ。だから、いったん観光を否定することによって、観光的価値、真正さが保持される効果がある」とものべられる。
  石垣市風景計画策定の中心人物へのインタヴューをもとに、「風景計画を通して、今日の移住ブームやミニバブルの時代に、観光客優先から市民優位へと、石垣市民の側から島の観光や景観を領有し返す方向を目指している。」という発言の紹介も注目される。

  そういうなかで、「内発的観光」「持続的観光」への展開が語られる。また、「グリーンツーリズムと特産品販売」という方向も紹介される。

  こうした動向がすでに八重山で見られるが、その点では、南城市でこうした問題に関心をもつ人たちのなかでいわれている体験滞在型観光の追求とほぼ重なる。
  このように、ツーリストも移住者も、地元の人々とつながりながら共同創造をしていく方向へとシフトする観光が追求されはじめている。

  ところで、移住者についていうと、この本では、ツーリストの文脈の展開としての移住者という視点で語られることが多い。裏石垣などではそうである人が多いだろうが、沖縄本島ではそうとは限らない。結婚・仕事の関係で移住する人がかなり存在する。また、最初はツーリストだったかもしれないが、沖縄での生きがいを見出しての移住者が、とくに20代、30代のなかに多い。私周辺にそうした人たちがたくさんいる。
  私のこのブログは、「沖縄移住」のカテゴリーにも登録しているのだが、その「沖縄移住」カテゴリーのブログを見ると、そういうタイプの移住者がかなり多い。新たな生き方をつくりだしてつつあるのだ。それは「ロハスの領有」とは対照的ですらある。
  余談だが、ロハスが関心を呼んで、琉球放送テレビの夕方番組「気ままなロハス」がかなり視聴されているようだ。この番組に登場してくるケースには「ロハスを領有」できる富裕層はきわめて少なく、むしろ地球にやさしい生き方と自分の生き方の転換創造を求めるケースが大変多い。
  
  そうした形のロハスを追求する移住者には、次のような背景を見ることが多い。
  沖縄へのツーリストが量的に激増した70年代半ば以降は、実は本土の都市社会が、企業社会として「成熟」し、働きバチ、レールののっかかった競争的な生き方が一般化した。そして、そうしたことから脱出、ないしは距離を置く生き方をする人々が、80年代終わりより、かなりの広がりを見せる。そうした人のなかには、沖縄観光のなかで、「癒し」を感じ、その「癒し」を一時的な「清涼剤」にとどめず、生き方、ライフスタイルとして追求しようとしはじめる。それは、沖縄とは限らない。本土のあちこちの「田舎」がそうした場として選択されはじめた。

  その意味では、私は「癒し」を求める人々を肯定的にとらえ、かれらがどのようにその「癒し」を展開していくのかに関心をもつ。おおげさにいうと、金銭・商品依存で、働きバチ的な社会と人生のありようのなかで、「癒し」を求めて沖縄にくることをきっかけに、自分自身の「癒し」だけでなく、「社会」の「癒し」をも追求し、オールタナティヴな生き方を、沖縄における生き方のなかに発見するという文脈のなかでとらえたい。
  このことは、Uターンする沖縄の人々にも広くいいうることだと思う。
  その点で、この本全体を通して、「癒し」が「表層的」で軽いものととらえられがちなのは残念だ。

  連載の最初でも書いたが、全体的にいろいろと示唆に富む本であった。それだけに連載が長くなってしまった。
  いろいろと示唆を受けたが、私はツーリストに関心があるよりも、沖縄に住む人々が、ツーリストや観光に対して、どのように対するか、そしてそれだけでなく、自らの生き方、および沖縄社会のありように対して、どのようにかかわっていくのか、ということに関心をもつ。
  この本は、研究者的まなざしでの論評が基調に流れているが、最後あたりになると、かなり実践的にコミットする発言の要素の比重が高くなっている。著者の今後の展開にも注目していきたい。

  
Posted by 浅野誠 at 16:32Comments(0)沖縄

2009年01月27日

多田本8 沖縄イメージ ちゅらさん モンパチ 琉球

  「太田昌秀の『沖縄の心』からモンパチの『琉球の心』へ」というタイトルの第八章は、2000年以降を扱う。
  そのなかに、こんな記述がある。
  「『ちゅらさん』とモンパチの県内オーディエンスには共通して、『本来の、これぞまさに沖縄』と、『昔ながらの、古きよき沖縄』という沖縄イメージが見出され、オーセンティシティとノスタルジアが結びついたまなざしが浮かび上がってきた」P224
  
  『ちゅらさん』は私も見たが、モンパチは、米軍ヘリコプター墜落事故にかかわって、沖国大出身の歌手グループがコンサートするということで知った名前しかわからない。そのモンパチは若者にすごく人気があるようだ。
  この章は、若者のもつ沖縄イメージに焦点があたっている。

  「独特の異化効果を発揮する」「琉球」という言葉にかかわって分析を行い、次のように書かれる。
  「『琉球』という言葉は、日本やアメリカが入ってくる前の、純粋型としての琉球王朝、「昔の沖縄」へのノスタルジアを呼び起こす。」と書き、モンパチの『琉球愛歌』などについて「『古き良き沖縄』を歌っていて、新鮮だった」というアンケートの記述を紹介している。
  そして「これは、『ちゅらさん』の調査で四〇代以上の世代に見られた、過去の記憶にもとづくノスタルジアとも異なる。コアな層は『昔の沖縄』を知らない一〇~二〇代、それも『琉球』だ。誰もその時代を生きていない。より幻想性の強い、イメージ準拠型のノスタルジアだ」と分析している。
  そうした「いまの沖縄の若者の感性」は、「『濃すぎる沖縄』を嫌い、『対本土』にこだわらない、『自然でありのまま』の沖縄を受け入れるリスナー」だという。

  若者感覚に疎い私には、参考になる指摘だ。
  それだけに、そうした若者が、かれらのもつ「沖縄イメージ」を今後どのように展開していくのだろうか。あえていうと、創造していくのだろうか。
  そこに注目したい。四〇代以上が、「政治」的感覚も含めた、生活体験的な「記憶」をもとに、「古き良き沖縄」へのノスタルジアを語るとしたら、一〇~二〇代は、今もつ「イメージ準拠型のノスタルジア」を、どのような生活感覚をもとにして、今後さらに築き上げていくのだろうか。

  私自身の願いというか、強い関心としてある、「現代の沖縄の若者が、どのような沖縄起こしをしていくのか」というテーマとかかって、今後考えていきたい問題である。
  また、それは「『自然でありのまま』の沖縄を受け入れる」感覚、いいかたをかえれば、「なんくる」であるのだが、「なんくる」がどのようなものとして形をあらわしていくのだろうか。



    
Posted by 浅野誠 at 13:55Comments(0)沖縄

2009年01月26日

多田本7 沖縄の「内と外」 「沖縄ブームから沖縄スタイルへ」

  この本の第6章「ツーリストの目線の逆用」は、1980-2000年を対象にしている。
  沖縄に来るツーリストが大量になるなかで、新しい事態がでてくる。
  苦いと嫌われていたゴーヤが好かれはじめたように、「メディアの健康言説が、沖縄料理の味覚評価をコロッと変え」る事態、それと似たいろいろな事態が書かれている。
  そうしたことをめぐる多様な指摘のなかで、以下の記述は私の興味をひいた。

  「情報環境が高度化するな、沖縄イメージはいまや『本土と沖縄』『内と外』の二項対立的な区分を超えて広がり、その区分自体を一方では脱・分化していく。ツーリストと地元、両者のまなざしは互いに、幾重にも媒介されている。リピーターの増大や移住がブームとなるなか、ツーリストも生活者の視点やライフスタイルを徐々に身につけていく。私はこれを、『沖縄ブーム』から沖縄スタイルへ』の変容と読んでいる。それは『非日常の日常化』であり」 P156~7

   「脱・分化」「沖縄ブームから沖縄スタイル」という二つの指摘。
   それは、あえていうと、私が言ってきた「異質協同」過程の進行という面をもつ。だがそれは、「沖縄的なもの」の解消・希薄化というわけでもない。「沖縄的なもの」の新たな創造でもある。それに、「新旧のヤマトゥンチュ」が参加することも多くなる。
   私のように婚姻とか仕事の関係で、沖縄に移住してくるわけではなく、ツーリストから移住者へと移る人が増えてくる。その意味でも、「沖縄ブームから沖縄スタイル」という表現は、うまい。

   こうした過程で、沖縄的なものが、ウチナーンチュに新たに「見えてくる」「発見する」ということもある。片や、琉球音楽舞踊のように「古典的なもの」を復活継承しようという動きと、片や「沖縄的なもの」を今日的なスタイルで表現しようというものがでてくる。この本での「沖縄ポップ」といわれているものは、そうしたものだろう。
   
   沖縄の創造的動向は、単なる「ヤマト化」「本土化」という形だけで進行するわけではない。「外」の世界との交流のなかで、多様な文化・まなざしをうけとりつつ、新たな創造へと展開していく。その意味では、「チャンプルー文化」を創造していく。「チャンプルー」文化とは、いろんな文化がチャンプルーされているというのではなく、チャンプルーとして創造しているところに意味・特性がある。それは「新たな沖縄的なものの創造」という性格をももつ。

   こうした沖縄の「内」での事態の進行と同時に、沖縄とかかわることを通して、ヤマトゥンチューが強い刺激を受けて、自らを変えていく過程を生み出していく点についても検討していく必要があろう。その意味では、沖縄がヤマトゥンチューに与える強烈な刺激は一体何であるのかという意識化・分析が重要になろう。
  その際、産業化の過度の進行、そして金銭・商品への過度の依存、また「偏差値」体制の支配が、人々の生活・精神世界にまで深く及ぶなかで、それとは異なるもう一つの生き方・人生を追求したい、という動向の広がり深まりを視野に入れる必要があろう。そして、そうした文脈のなかでの「癒し」への渇望と、「沖縄」での「癒しの実現」ということもかかわってくる。 
  さらにその際、こうした問題が、「沖縄」「ウチナーンチュ」の世界では、「本土」ほどに意識化されていないことは、一体何なのだろうか、という問いもでてこよう。  
     
Posted by 浅野誠 at 11:36Comments(0)沖縄

2009年01月25日

多田本6 イメージ消費  脱線話-観光でないツーリストたち 

  1970年代、沖縄はイメージ消費の観光対象へと変化していくといった指摘が行われる。
  たとえば、「電通」が設定した「『ファンタジア沖縄』は、まさに沖縄版『ディスカバー・ジャパン』であり、「『青い海』『白い砂浜』『ビキニの女性』というイメージの三種の神器が定番」となっていく。そして「『沖縄に行けば、何かがおこるかもしれない』」という「漠然とした未来への期待・幻想を高めさせる」のである。それはまた、「『日本のなかにありながら異質な亜熱帯としての沖縄』」というイメージと結びついていた。

  こうした動向は、日本全体の「観光」の動向と重なる。「観光のまなざしはビジュアル・メディアと連動して、『国土』の風景をイメージ消費の対象にすると同時に、若い女性層から他の層も巻き込む形で、『国民』をもイメージの消費者として再編していった。」P116とのべられる。

  注目したいのは、「沖縄キャンペーンは、観光客だけに向けられたものではなく、県民に『沖縄県民』としての意識を促すキャンペーンでもあった」という指摘である。それは、次の指摘へと連なっていく。
  「六〇年代の戦跡中心の沖縄観光が、大きく組みかえられてゆく。沖縄キャンペーンは、沖縄の歴史・文化や県民を、観光振興に適合させようとした。あるがままの沖縄を外にアピールするのでなく、演出したいイメージに合わせて新たに沖縄を構築していく、県内向けの能動的な機能も持ち合わせていた」P143~4 

  こうしたなかで、ニライカナイ信仰にかかわって、「海洋博において導入された、海をまなざす純粋な視覚的快楽のフレームは、こうした信仰とは無関連かつ対照的に、海洋レクリエーションへの欲望を呼び起こす。沖縄のローカルな歴史・伝統に根を張った信仰・価値観から、本部の海の風景を美的なイメージとして切り離し、観光のまなざしのオブジェへと変えてしまう。」P121 注目すべき指摘である。

  久高島、斎場御嶽など東廻りの聖地を多くもつ、私が住む知念半島では、こうした「観光のまなざしのオブジェ」化は、この時期ではなく、近年になってすすむようになった。斎場御嶽などは、1980年代では、草をかき分けて、ハブがでないかと気遣いながらいく所であった。70年代半ばにはじめた訪れた久高島は、馬天港からポンポン船に乗ってでかけるところだった。幸か不幸か、時期的に遅れたためにか、オブジェ化された観光とは少し距離をおいた「癒し」の「聖地」的性格を、いまなお多分に持っている。その意味では、本島西海岸や本部とは異なったイメージで訪問するツーリストの場となった。いまでも、というか今でこそというか、信仰的世界と結びついた「癒し」イメージのなかで訪れる人、リピーターや移住的性格を濃厚にもった人が訪れる場となっている。
  そうした性格が一層濃厚なのは、しばらく前に訪問した宮古の大神島だ。

  今回は、本とは直接のかかわりがない脱線話が多くなる。

  こうした「信仰」「癒し」の問題と並んで、「復帰運動」「平和運動」などにかかわって沖縄を訪問するツーリストについての分析が必要だろう。さまざまな集会の開催や運動交流の展開のなかで、沖縄を訪れる人は、60年代以降、かなりの数にのぼると思う。それらを著者がどう分析するのだろうか。尋ねてみたいことだ。

  「復帰」前は、パスポートと高等弁務官が発行するビザの取得が必要であり、かなりの人が発行拒否にあっていた。私の知人にもいる。私の個人体験でいうと、1971年に結婚準備と就職活動のために沖縄を訪問した。その際、私は「渡航目的」をそのまま手書きで書こうとしたら、旅行社の人からおしとどめられて、「観光目的」にしてタイプライターで記入することを強力に勧められた。ともかく沖縄に行く必要に迫られていた私はそれに従った。
  だから、私のみならず、多くのツーリストが、沖縄の「政治的状況」に強い衝撃をうけつつ訪問しているだろう。そのことは、復帰後においても、形を変えて続いている。そして、その沖縄の政治的状況を意識しつつ、沖縄にくるツーリストも多い。沖縄修学旅行にも、たんなる「観光」ではなく、「沖縄学習」的性格を濃厚に持たせようとする近年の動向には、このような伏線があるとみてはどうだろう。
  このような「沖縄学習」的性格と「観光」的性格を入り混じらせながらくるツーリストをいかに分析するのだろうか、そのことも興味ある問題だろう。

  もう一つ脱線話を書こう。
  大学関係でいうと、1970年代に沖縄にくる本土出身者には、学生と教員がいる。かれらの多くには、「沖縄こそ行きたかった」というプラスイメージと、「沖縄に来るしかなかった」というマイナスイメージのいずれか、または両者が入り混じって存在していた。両者ともに、著者がいう「異質」なものへの反応があり、「異質」への対応にプラスマイナス双方があったともいえる。
  マイナスイメージには、沖縄への差別感覚が含まれていたが、それには、後には「偏差値」といわれるようになった「序列」意識と結びついていた。それは、70年代末に「沖縄の学力問題」として、爆発的関心を引き起こしたこととも関係があろう。そしてそこには、著者が言及している、沖縄の外からのイメージが、内からのイメージの「構築」に結びついていたともいえよう。

  

       
Posted by 浅野誠 at 13:18Comments(0)沖縄

2009年01月24日

多田本5 「蔓延する沖縄病」と「癒し」

  こんな一節がある。
  「六〇年代の戦争沖縄病も、今日のリゾート沖縄病も、沖縄に『癒し』に行く点では共通している。罪責感であれ南の楽園であれ、弱者・周縁を領有(植民地化)することによって。」P105
  
  鋭い指摘である。
  この指摘をヒントに、私なりにいくつかのことをのべよう。

  沖縄旅行をして沖縄病にかかる前、つまり沖縄旅行以前では、多くの人は、沖縄についての限られた認識、しかも、偏見・差別を含んだ認識をもちやすい。今日では、多少は「薄れている」とはいえ、そういうものをもっている方が普通だ。だから、沖縄訪問をして、「意外に便利だ」「亜熱帯で美しいけど、結構同じような植物がある」「ウチナーグチが中心だと思ったけど、結構標準語が通じるんだ」「沖縄も日本なんだ」などの感想を聞くことが結構あった。今でもそれに近い感想を聞くこともある。
  20数年前、ウチナーンチュとの結婚話があり、そのことの相談もあって東京から来たある女性は、「東京の人は、こんなお菓子が好きなんです」と私に手土産を渡した。そこには、上品な東京の人が、そういうお菓子を知らない沖縄の人にあげるという雰囲気がにじんでいた。
  偏見・差別の変形としての、非対称的な「同情」つまり「憐れみ」は、よく出会うものだ。

  余談だが、私たちのように、ウチナーチュとヤマトゥンチュの結婚は、40年近く前では、沖縄に対する偏見・差別意識の関門を多少なりともくぐりぬけなくてはならなかった。「沖縄人は人種が違う」とさえもいわれて、大喧嘩をしたこともあった。

  そうした偏見・差別意識をもって沖縄旅行した人が、「罪責感であれ南の楽園であれ、弱者・周縁を領有(植民地化)する」形をとりつつも、それまでの沖縄認識の変更を含んで沖縄認識を一歩すすめることも事実である。そして、「沖縄病」に「はまる」人も結構いる。
  そこのところを見事に活用した人がいる。主席・知事をつとめた屋良朝苗さんだ。1950年代から60年代にかけて、沖縄教職員会会長として復帰運動の中心的役割を果たしたかれは、沖縄の教師のほとんどが参加する教育研究集会に毎年、本土の著名な人物を招いて記念講演をさせ、かれらを「沖縄病」にかかるように仕向けていったのだ。そして、「復帰運動」の支援者づくりをしたというわけだ。私は、1980年ころ、彼にインタヴューしたときに、その「作戦」を聞いた。(浅野誠『沖縄教育の反省と提案』明治図書1983年参照)

  この「沖縄病」にかかり、リピーターになっていく人は結構多い。そして、徐々に沖縄の人々の日常生活に触れるなかで、沖縄認識をさらに深め、場合によっては改めていく。なかには移住する人も出てくる。そういうなかで、沖縄の「生活者」として発言する人も出てくる。ここまでくると、ツーリストではない。多文化共生状態、あるいはそれを越えて、沖縄づくりの共同の担い手になってくる。
  こういうプロセスのなかで、沖縄以前に抱えていた「傷」などを「癒し」ていく人はかなりいるのも事実だ。数日の沖縄旅行での「癒し」とは、かなり異なる。
  「癒し」を批判するのはたやすいが、その「癒し」の内実にまで入って、考えていく必要があると、私は思う。

  こんなステップの最初の一つとして、「問題」を含みつつも「沖縄病」があるのではなかろうか。
  その「沖縄病」は、いずれ「治る」のだが、対照的なタイプがある。沖縄の生活者になっていく人と、沖縄の「あら」「欠点」が見えてきて、沖縄から去っていく人とである。

  ところで、私のように、ウチナーンチュと結婚したヤマトゥンチュ、しかも沖縄に住んでいるものは、かなり早くからツーリストではない。長く沖縄に住むヤマトゥンチュでも、沖縄のなかのヤマト的世界が大部分を占めるところで住む人は、ツーリストに似たまなざしを残すことが多いが、彼らとはかなり異なる日常生活を営むことになる。
  
  どんどん話が広がりそうなので、このあたりでやめよう。

  
Posted by 浅野誠 at 09:18Comments(0)沖縄

2009年01月23日

多田本4 「愛郷心を通して愛国心を示す」

  本書は、戦前期において鍵となる人物として島袋源一郎をとりあげて、いろいろと興味深い指摘を行っている。
  まず一つだけ指摘しておこう。「26歳で校長に抜てきされた」とあるが、彼が校長になったころの明治末から大正期はじめの時期に、沖縄師範学校を卒業したものが20代で校長になる事例はありふれていたことだけは指摘しておきたい。

  彼のように沖縄師範学校を卒業したウチナーンチュが、明治後期より、徐々に沖縄の教育界、場合によっては地域政治界のリーダーになっていく。その一人である彼は、「愛郷心を通して愛国心を示す」という小見出しに使われるような活動を推進する人物であり、昭和はじめに広く推進された沖縄の郷土教育の重要な人物であり、沖縄教育界・言論界のリーダー的役割を果たした一人であった。
  その彼が、改姓運動の「発案者・主唱者」でありつつ、沖縄の「郷土史の知識を普及」させていく。このことと関連して、島袋の「沖縄と琉球の使い分け」などの「ダブルスタンダード」が指摘され、「沖縄・琉球」「生活・観光」「地元民・ツーリスト」という「リアリティの二重性が並立する事態」が述べられる。
  こうした構図は、今日に至るまで、教員層を含めて「沖縄の知識人」によくみられる。そしてそれは、「沖縄的なものの良さ」を強調すると同時に、本土基準にして「沖縄の遅れ」を指摘し、「本土に追いつく」ことを主張するという形で、今なお沖縄の教育界で支配的な発想構図でありさえする。
  こうしたことをどのように分析するのか、100年来の課題ともいえよう。

  こうした問題にかかわって、著者は次のように述べる。
  「島袋は明らかに、本土ツーリストのまなざしを内面化した形で、沖縄を美的に描き出している。沖縄が貧困に苦しむ暗い時代に、彼がここまでポジティブな沖縄イメージを演出して語れたのは、相手をツーリストに設定したからだろう。こうした沖縄への観光のまなざしを確立するとともに、そうした外からのまなざしを内にはね返らせ、地元民が郷土を愛するまなざしにも活用する作業が、同時に行われていたのである。」P77
  興味深い指摘であるが、一点だけ私なりの指摘をしておきたい。「沖縄が貧困に苦しむ暗い時代」という点にかかわってである。著者は、いつの時代のどのような事態を指して、このことをのべているのだろうか。こうした表現は、長い間、頻繁に使われ、今日なお「決まり文句」に似たものさえなっている。いわば「沖縄の貧困イメージ・暗いイメージ」とさえいえるものだ。

  著者は1940年の沖縄方言論争についても分析を深める。興味深い点が多い。そこで一点だけ指摘しておく。
  「沖縄の人びとが憤慨し違和感をもったのは、柳ら中央インテリ文化人たちの、ツーリスト的な沖縄へのまなざしと語り口に対してであった。『素晴しい、美しい日本古来の文化がここにある』と、柳らがどれだけ言葉を尽くして沖縄をほめようと、彼らが沖縄を外から客観的に見て、上から批評していた姿勢は明らかであり、生活者の視点にはほど遠かった」P83~4
  興味深いのだが、沖縄側についていうときに、「沖縄の人びと」「生活者の視点」という言葉が、誰を指すのか、ということに私はこだわる。というのは、この論争において発言した沖縄側の人びとは、教育界を含めて、沖縄のインテリ文化人だったのであり、「沖縄の人びと」「生活者」のなかでは、かなり絞られた方々であるからだ。
  もっとも、この書は、ツーリストの沖縄イメージを問題にしているのであり、「沖縄内部」の側を主要対象としてはいない。だから、ここでは、これ以上深入りしないでおこう。

  この問題に私が触れる一つの理由は、沖縄の「生活者」「人びと」の多くは、方言矯正強制・改姓「指導」に、公的な形での異議申し立てをしなかったとしても、生活レベルでは、それほど従ってこなかった、ということがあるからである。
  また、首里王府時代の前史をふまえて、明治期以降形成確立されてきた、沖縄「指導層」をどう分析していくか、そのことに私自身の一つのモチーフがあるから、こうした点にこだわるのだ。それは今日的問題でもある。その「指導層」形成にあって、島袋がそうであるように教育界がきわめて重要な位置を占めてきたからだ。
  
    
Posted by 浅野誠 at 12:07Comments(0)沖縄

2009年01月22日

多田本3  貧困イメージと「古きよき琉球へのロマン主義」

   小間切れの感じだが、この本で興味を感じた個所、それをきっかけに考えたことなどを連載していく。

   今回は、次に示す、戦前、朝日新聞記者が書いたものとそれについての著者のコメントの個所だ。

  「『政治的、社会的、経済的には、一日も早く他府県と伍して見劣りにせぬ沖縄のレヴェルにまで昇ってもらいたい。観光のアトラクションとしては、いつまでも龍宮を連想する美しい琉球であってほしい』
  沖縄の政治経済の改良・振興を求める現実主義と、古きよき琉球へのロマン主義は、ツーリストの意識のなかで、かくも都合よく両立してしまう。いまも昔も、こういうところは変わっていないようだ。」 P49

  著者がいう通り、この両立は今も強くあるようだ。
この対比される発想・イメージ自体が、ステロタイプになっているのだが、それに対して、どう考えるのか。ここには深い問題がある。

  沖縄の貧困イメージも、本土的まなざし、とくに商品金銭過剰依存的な経済的まなざしからとらえられてきた。
  他方、ロマン主義的イメージは、超歴史的超社会的なものからとらえられてきた。沖縄の「癒し」イメージにはそうした性格がつきまとう。
  こうしたまなざしを本土からくるツーリストがもつのは「事実」としても、沖縄の現実はそうしたイメージに集約されるものとはかなり異なる。

  その点にかかわって興味深いのは、戦前何度も沖縄を訪問した社会学者河村只雄についての次の記述だ。
  「河村は、辻通いをして琉球を知った気になる観光客に憤りを感じ、琉球への関わり方が肉欲へと特化し完結する、その表層性・一面性の対極に、フィールドワーカーとしての自分を位置づけていた。『より高度な』ツーリストが他のツーリストを批判・揶揄し、自分を彼らと差異化して位置づける営みは、もう当時から行われていたのである。」P55
  なかなか鋭い。著者からすれば、私なども、ここで「差異化して位置づける」一員にカテゴライズされるのかもしれない。
  だが、問題は、「表層的」ツーリストと河村などの「差異化」するツーリストの違いだけにあるのではない。そこから先なのだ。沖縄把握も含めて、ものごとのとらえ方は、ある種のイメージをもとにはじまることが多い。そのもとにしたイメージをどのように展開変化させていくかなのだ。

  もう一つ。ツーリストが提供する沖縄イメージと、沖縄の内からのイメージ創造との関係にかかわる、次のような指摘だ。
  柳田ら中央の研究者による一国民俗学と、地元研究者による郷土研究とは、相互に補完し合っていた。柳田が、異民族・異文化を扱うエスノロジー(民族学)と差異化して、フォークロア(民俗学)を独立分野として立ち上げるとき、地元民の内側からの自発的な郷土理解という要素は必要不可欠だった。」P68~9

  「外と内」との交流・協同・刺激しあいが、沖縄にかかわる研究・認識を発展させてきたことは重要な事実である。問題は、それぞれ相互が、他者に対してどのようなイメージ・関係をもっていたかによって、大きく異なることだ。
  ちなみに、私個人の体験と主張でいうと、沖縄教育界は、本土教育界に対して、絶対的といえるほど「上」に見て対応する体質を濃厚にもち、「内」からの自律的展開のなかに、「本土」教育界を活用していくという姿勢の欠落・希薄を強く問題にしたのは、1970、80年代であった。


   
    
Posted by 浅野誠 at 15:00Comments(0)沖縄

2009年01月22日

多田本2  本土からのツーリストのまなざしとナショナリズム

  戦前の沖縄観光をめぐって書かれている次の文は、今に至るまであてはまる部分があるかもしれないと思う。
  大阪商船の沖縄旅行団募集文からの引用だ。
  「日本の内地でありながら遠く南に偏在するため、独特の南洋情緒を湛えている沖縄島」
  これについて著者は次のように述べる。
  「この情緒は、日本というナショナルな同質性と、その南端という異質性が両立することで醸し出される」P43

  長い間、私にとって、ナショナリズムにかかわる問題は、沖縄在住の人々のアイデンティティにかかわる問題、という視覚で考えてきたことだったので、ヤマトゥンチュ・ナイチャー・日本人にとっての「ナショリナリズムと沖縄」というアプローチには新鮮さを感じた。その意味では、戦後の今日に至るまで、本土からの沖縄へのツーリストのまなざしについての叙述にも興味をそそる点が多かった。
   この本は、本土からの沖縄へのツーリストにかかわるものなのだ。「外国」からのツーリストではない。また、沖縄に住む人々が、沖縄内を旅行するツーリストではない。あるいは沖縄から本土にでかける際のツーリストではない。
   だから、この本は、「本土にアイデンティティをもつ人々が沖縄を旅行する」ツーリストのまなざしの分析が主要なのだ。

  話はまったく別のこと。
  今日、突然の来客があった。10年ぶり近くにお会いする、本土からのツーリストだ。
  その際に、「浅野さん、東京に帰ることがあるんですか」と尋ねられた。
  ずいぶん違和感を覚えた。そういうような考え方をしたことがないので、「エーッ」という感じだった。
  本土からのツーリストの方々には、私のように本土から沖縄に移住した人に対して、「本土に帰る」という表現がごく自然なのだろう。でも、私の感覚にはそうしたものが消失している。私にとっては「東京に行く」「本土に行く」なのだ。
   

  
  
  
Posted by 浅野誠 at 11:56Comments(0)沖縄

2009年01月21日

多田治『沖縄イメージを旅する』(中公新書2008年)を読む1

  序章にこう書かれている。
  「東京と沖縄を行き来する移動性に身をゆだねながら、両地点をつなぐ関係性の上にたってみよう。あえてツーリスト的な外からの目線を逆用することで見えてくる『沖縄』も、きっとあるだろう。」P34
  「方法としてのツーリスト」というわけだ。
  そして、「マッカネルの視点を借りれば、ツーリストは単に、観光という特定の領域に限定された、一個人にとどまらない。ツーリストとは、近代という時代に生み出される、歴史的・社会的存在でもある。ならば、ツーリストを切り口にして、近代社会のひとつの断面にアクセスすることもできるはずだ。」P35~6 とも述べられる。
  こうした立場から、戦前から今日にいたるまでの「沖縄イメージ」について述べられていく。

  このように、ツーリストの立場にたって、かつまた「観光」ということに焦点を絞って、沖縄イメージを述べるということは、私にははじめての出会いである。無論、ツーリスト的なまなざしでの発言には頻繁に出会う。だが、そこに焦点化して、本格的に論じるものに出会うのははじめてだ。
  それだけに、私が気づかなかった多くのことが、新鮮さをもって、私に入ってくる。私も沖縄史にかかわって仕事をしてきたが、私の視野にはなかった指摘が多い。その意味では、私の今後の沖縄史作業にも示唆を与えていく可能性がある。
  もう一つ、私が沖縄に住んでいなかった1990年代から2000年代前半について、そこでどのような「社会的事態」がおこっていたのか、についても知ることが多かった。

  「方法としてのツーリスト」は、対象物を客観的に把握するうえで、大変有効なものであろう。私にも、そうしたまなざし・方法がまったくないとはいえない。
  しかし、私には、「当事者」としてのまなざし、視点が濃厚である。著者の言葉を借りれば、「方法としての当事者」かもしれないが、そんな表現はない。
  私の場合は、「沖縄の教育にかかわる当事者」である。本著と、時代的に重なる点が多い、1983年刊行『沖縄教育の反省と提案」(明治図書)などには、それが猛烈に出ている。だから、「沖縄教育」に対する強いメッセージ性をもつものとして、意識的に書いたのだ。もう一つの『沖縄県の教育史』(1991年思文閣)、先史時代から明治期までであるが、「当事者性」のまなざしを鋭く投影させて書いている。

  そんな私からいうと、著者の指摘に対して、「それではどうするの」「どうしたいの」と、つい問いたくなってしまうことがしばしばであった。
  こういう風に思う理由の一つは、沖縄研究・沖縄調査にこられる方のなかに、沖縄の情報を収集して、その人なりの論文などを書くのだが、情報を集められた当事者から見ると、「情報を一方的に収集された」、強くいうと「とられてしまった」という感じが残こされてしまう体験が結構多いからだ。

  また、当事者性が希薄だと、「足どり軽く」書ける・発言できる、という面がある。当事者だと、なかなかいえない、あるいは婉曲にしかいえない、ということが結構多い。私の「沖縄教育の反省と提案」にもそうした様相が色濃く出てしまっている。

  このあたりは、社会学と、教育実践にかかわる教育学の違いからでているのかもしれない。

  
  
Posted by 浅野誠 at 14:27Comments(0)沖縄

2009年01月19日

宜野湾北部から美浜方向をのぞむ



  知人宅ベランダより見る。

  私はこのあたりはとても疎い。
  20年前の景観とは全く異なる。
  かってのハンビー飛行場、その北側が、全くの都市になっている。
  その向こうの読谷・残波あたりはかすんでしまう。

  
Posted by 浅野誠 at 15:10Comments(0)沖縄

2009年01月19日

東シナ海を見渡せる最高の住まい


  宜野湾海岸近く知人宅から

  太平洋を見渡す我が家とは全く異なる景観
  海を見渡せる景観を人々は愛するが、沖縄には、それぞれのところにそれぞれの景観がある。

  
Posted by 浅野誠 at 10:18Comments(0)沖縄

2009年01月13日

伊良部島

 工事中の橋の宮古島側のたもとから見る伊良部島



  写真を撮ったところのすぐ側の海岸。
 寒い日とは思えない。

  
Posted by 浅野誠 at 21:28Comments(0)沖縄

2009年01月13日

伊良部架橋工事

  宮古島側の写真 
  


  上の写真についで、伊良部島方向へと伸びている工事の写真



  伊良部島側からも工事が進んでいるようだが、写真ではうまくとれなかった。
  
Posted by 浅野誠 at 19:44Comments(0)沖縄

2009年01月13日

久松五勇士の碑


 五本の支えの上にあるのが、彼らが漕いだサバニの形
  
Posted by 浅野誠 at 17:52Comments(0)沖縄