三山 九州 琉球 沖縄独自 吉成本6最終回 

浅野誠

2012年06月19日 06:02

 「三山」についてのこれまでの「しろうと常識」を打ち砕いて、次のように述べる。

 「「三山」とは、倭寇、密貿易者などとして活動している(していた)勢力を指していると考えることができる。もちろん、倭寇の「受け皿」になる以前からの在地勢力も、その中に含まれる。」P219

 さらに詳しく、次のように述べる。

 「明が琉球国に朝貢を招諭してから十数年を経て、はじめて倭寇勢力を朝貢体制に取り込む「三山」の体制が「形成」されたと考えられる。しかし、山南では、山南王承察度と山南王叔汪英紫氏が山南の朝貢主体として分立しており、内紛-あるいは在地勢力と外来勢力の間の闘争かもしれない-の絶えなかった状況を窺うことができる。また、中山王察度が山南王子承察度の送還を朝鮮に求めていること、山南王温沙道が中山王に追われ朝鮮に亡命していることなどから、中山と山南の関係においても同様の状況があったと考えられる。山北にしても、官生の派遣が認められていない―「向化」していない―ことから考えて、倭寇活動を繰り返す、中山、山南とは異質な勢力だったのではなかろうか。
 明が周辺諸国に使者を送り招諭し、各国が朝貢し、一応、朝貢体制を形成した後に琉球に使者を送り招諭したのは、琉球の倭寇活動の外堀を埋め、朝貢体制に引き込むための方策だったと考えることもできる。また、琉球国が形成された後においても、明は、倭寇と結びつきかねない潜在的脅威として琉球国を認識しているが(『明実録』 一四五二年)、これは第一尚氏という国家が形成されたものの、琉球には依然として倭寇としての性格を持つ勢力が存在していたことを物語る。」P230

 さらに、「三山」・倭寇と明との関係だけでなく、南北朝時代の九州における対立抗争とのからみで、次のように述べる。

「征西府・南朝方豪族・南朝系倭寇という繋がりを想定し、その倭寇が琉球諸島で活動したとする見方を提示しだのが稲村賢敷(中略)である。稲村は、倭寇が菊池、松浦の軍勢と表裏をなす水軍であること、征西府の勢いと倭寇の活動の間には相関関係が認められるが、それは倭寇の朝鮮への侵入が、南朝方の軍糧確保を主な目的としていたことによると指摘する。この時期の倭寇が征西府と親密な関係にあったことは、明の洪武帝による再三の倭寇禁圧の要請にもかかわらず、これを黙殺していること、これとは逆に九州探題側は倭寇を敵視し、高麗と連携して倭寇討伐にあたっていること、南朝方の松浦氏は自らの所領を根拠地とする倭寇の活動を禁止していないことなどからも裏づけられるとする。やがて、南北朝の争乱が終息し(中略)、南朝方の勢力が衰退すると、倭寇も影を潜めなければならなくなったが、にわかに衰退したわけではなく、漸次南下し、幕府の力の及ばない琉球諸島に根拠地を定めたと推定するのである。
 この稲村の倭寇論は、折口信夫の「琉球国王の出自」を歴史学の立場から裏づけたものと言ってよい。」P222

 このあたりについて不勉強のままできた私には、刺激的な話の連続だ。
 なお、これらの一連の叙述の最後、つまりは本書の末尾に次のような記述がある。

 「琉球弧の歴史は、いつの時代を取り上げても魅力的な「難問」を突きつけてくる。それは、何ひとつ「与件」として議論することを許さないということでもある。たとえば、「琉球弧には本土ではすでに失われてしまった文化がある」という表現をしばしばみかけるが、琉球弧の文化の成立過程を考えた場合、具体的に何を指すのか、きわめて曖昧な表現であると言わざるをえない。「琉球弧には独自の文化がある」という場合もまた同じである。」P252

 注目すべき指摘である。だが、「独自」とは、歴史の流れの中で形成されてきたし、いまも形成しているものであって、「もともとある」ものではない、ということに留意したい。
 だから、「独自」なものがあることを否定することはできない。より正確に言えば、「もともとある独自なものはない」、ということにとどまるのではなく、『歴史のなかで独自なものが形成されてきたし、これからも独自なものが形成されていくであろう』というべきだろう。
 沖縄を固定化し絶対化する「沖縄ナショナリズム」的なものに陥らないよう留意しつつ、かつ多様な世界との交流の中で、「沖縄独自」なものを形成する営みが促進されてよいだろう。


 写真は本文に関係なく、よへなアジサイ園のアジサイ





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