アマミキヨが複数・多数いる、という見方

浅野誠

2013年03月15日 06:27

 我が家近くのヤハラヅカサは、アマミキヨ上陸地点といわれているが、いつごろ誰(達)が上陸したのかは、はっきりしているわけではない。という事もあって、私は大きな関心を寄せていた。
昨年、濱比嘉島に出かけたが、そこにはアマミチュー・シルミチューがある。他にも、そうしたところがありそうだ。ということで、私には疑問形のままだった。
 最近、谷川健一・折口信夫「琉球王国の源流」(がじまるブックス3 榕樹書林2012年)に眼をとおしたが、そのなかに谷川さんの書いた次のような一節がある。

英祖王をうたったおもろ歌謡について、谷川コメント
「琉球神話の開闢神であるアマミキョに対して、ヤマトから鉄器を作る技術をたずさえて南島にやってきたアマミキヨがある。前者を「古渡り」のアマミキヨとすれば、後者は「今来」のアマミキョである。右の『おもろさうし』のアマミキヨは、ヤマトから築城技術をもってきた「今来」の工匠をさしている。彼ら工匠は硬い石の表面を鉄の斧で削平してグスクをきずいた。」P24-25

 つまり、アマミキヨは複数・多数あり、沖縄に移住してきた時期・場所もさまざまなのだ。そうとらえると、ヤハラヅカサだけでなく、あちこちにアマミキヨ上陸地点があってもいいわけだ。もしかすると、一つのヤハラヅカサだって、時代の違いで複数のアマミキヨがいても不思議ではない。
 リ-フの切れ目の水路を通って、古い時代から長期にわたって、交流交易の重要な場になってきたヤハラヅカサ周辺だから、そのように理解してもいいだろう。
 すぐ近くの濱川御嶽、さらにミントンやタマグスクにしても、それらをよりどころにしたのが、時代差を考慮して考えると、複数いるということはありうる話だろう。
 そうなると、尚巴志時期までの数百年、あるいはそれ以上の期間の歴史が、この周辺でいろいろと累積していると見ることができよう。すぐ近くには百名貝塚があることだし。

  写真は、大潮干潮時、ヤハラヅカサよりへ数十メートル沖の浅瀬から、ヤハラヅカサ・濱川御嶽一帯を写す。

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