プロフィール
浅野誠
浅野誠
1972-73年沖縄大学に勤務
1973-90年琉球大学に勤務
1990-2003年中京大学に勤務
2004年より沖縄生活再開
玉城の絶景のなかで田舎暮らし
自然と人々とつながりつつ人生創造
執筆活動、講演・ワークショップを全国にて行う
沖縄県立看護大学・沖縄リハビリテーション福祉学院で非常勤講師
沖縄大学客員教授 南城市・西原町で、多様な審議会等で委員長などを務める

  最近著
  『沖縄おこし・人生おこしの教育』(アクアコーラル企画)
『<生き方>を創る教育』(大月書店)
『ワークショップガイド』(アクアコーラル企画)
『沖縄 田舎暮らし』(アクアコーラル企画)
  『浅野誠ワークショップシリーズ』
    1.ワークショップの作り方進め方
    2.人間関係を育てる
    3.授業づくり(小中高校)
    4.授業づくり(大学)
    5.人生創造
  6.人間関係・人生創造・世界発見・共同活動創造
 
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2013年01月03日

ベック 「第二の近代」「個人化」「自分自身の人生」

 最近、ドイツのベックの「第二の近代」とか「個人化」などといった論に出会うことが多い。関心を持たされる議論が多いことは確かだ。その中に、「自分自身の人生」といった論があり、「生き方」とか「人生創造」とかについて、いろいろと語り書き、ワークショップなどの形で実践してきた私としても、大いに関心を寄せて検討を始めているところだ。
 そのことについて詳しく論を展開しているらしい2002年刊行の「個人化」(ウルリッヒとベルンシュハイムの両ベックの共著)は、和訳されていない。そこで、その中味を紹介しつつ論じている武川正吾「グローバル化と個人化」(盛山和夫・上野千鶴子・武川正吾編『公共社会学2 少子高齢社会の公共性』2012年東京大学出版会)を参照したい。
 まずは、その一部を紹介しておこう。

 「グローバル化と個人化との関係を考えるうえで参考になるのは,ウルリッヒ・ベックの個人化に関する議論である.彼は,彼のいわゆる「第2の近代」のなかで必然化する「自分自身の人生」(a life of one’s own)という概念について,その特徴を15のテーゼにまとめている(中略)
 現在の社会は高度に分化しているため,個人は部分的にしか社会に統合されない.その結果,個人はもはや近代以前の社会におけるような伝統に従った生き方をすることもできなければ,「第1の近代」におけるような階級やエスニシティに準拠した生き方もできない.このため個人は「自分自身の人生」を選択し,自分自身の生き方を探し出さなければならなくなる.「自分自身の人生」が普及してくる過程を「個人化」と呼ぶならば,「第2の近代」では個人化の進行が不可避である.
 ベックが15のテーゼのなかで述べている論点は多岐に及ぶが,そのなかで注目すべき点は3つである.

 第1は,個人化とネオリベラリズムとの親和性である(中略)。自分自身の人生を生きるということは,個人が自分の伝記を選ぶことができるということであり,能動性を強いられるということでもある.そこでは自己責任という考え方が強調され,人生において失敗しても,それは個人の責任であって社会の責任ではないということになる.人生のできごとは個人の外側の要因に帰せられるのではなくて,個人の内側の「決定,非決定,不作為,能力,無能力,業績,妥協,挫折」といった要因に帰せられることになる(もちろんそれは虚偽意識であるかもしれない).このため「自分自身の人生」について語るということは「自分自身の失敗」(your own failure)について語るということでもある.これはネオリベラリズムの考え方につながる.
  (中略)

 第2の論点は,グローバル化が各国における伝統の解体と再編を進めるという点てある.ベックによれば「自分自身の人生」とは「脱伝統化された人生」である(中略).しかしこれは伝統が廃止されることを意味するのではなくて,個人が,新しく作られた伝統も含めて様々な伝統やその混成体の間での選択を強いられることを意味する.しかもこうした伝統の解体と再編は,国籍を超えた性格を帯びる.(中略)グローバル化した世界では,(中略)個人は複数の伝統や文化の問を右往左往せざるをえなくなる.もはやモデルとなるべき生き方が存在しないため,「自分自身の人生」は「実験的な人生」(experimental life)とならざるをえない.要するに,グローバル化は,各国における単一の伝統や文化を破壊するために個人は「自分自身の人生」を生きることを強いられる,すなわち,個人化が余儀なくされるということになる.

 第3の論点は,「自分白身の人生」が「反省的な人生」(reflexive life)であるという点と関連する(中略).グローバル化は前近代的な伝統を解体するだけでなく,「第1の近代」すなわち産業社会におけるカテゴリーの多くを無意味化する.例えば,グローバル化された世界のなかで,一国単位の階級はもはや個人化され重要なカテゴリーではなくなる.広大な低賃金のプールが国外に控えていて,しかも資本(そして労働)の国境を越えた移動が自由になっているという状況の下では,団体交渉をつうじた集団的労使関係を維持することはもはや困難である.その意味で(少なくとも対自的な)階級は意味を失う.エスニシティ,核家族,伝統的女性役割についても同様である.これらは「ゾンビ・カテゴリー」(ベック)としてお払い箱になるために,これらに準拠した生き方も閉ざされる.彼によれば,社会のレベルで「社会的反省――矛盾する情報の処理,対話,交渉,妥協」が必要になるのと同様,個人のレベルでも自分自身の反省的な人生が必要となってくるのである.要するに,グローバル化は,産業社会のカテゴリーを解体することによっても,個人化を促進する.」
P22~25

 同意できる論、同意を留保したい論、異議がある論などいろいろだが、私の思考に強い刺激を与える叙述である。そこで、まずは以上の紹介に留意しつつ、私が今後考えていくうえでポイントになりそうな点を並べておこう。

 1)個人化が、時代的趨勢であるとしても、その個人化がいかなる方向に向くのか、向けていくのかによって、大きな差異がある。
 2)個人化が、時代や社会の趨勢であったとしても、それは個人のレベルで具体化される。その個人レベルでの具体化にかかわって、どういう課題方法方向を提示したらよいのか。
 3)個人化ではあるが、それはイコール孤立化ではなく、多様なつながりのなかで展開される。そのつながりをどのように構想していくのか。引用のなかの第三の論点がかかわる。
 4)個人化は、「伝統の解体と再編」にかかわるという第二の論点をどのように展開するのか。
 5)強い個人になることを志向するのではなく、弱い面を持っていることを自覚し受け入れ、それを他者・自然とのつながり・共同でカバーしていく。

ベック 「第二の近代」「個人化」「自分自身の人生」

 ヤハラヅカサでの初日の出


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Posted by 浅野誠 at 19:15│Comments(0)生き方・人生
 
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