2013年01月24日
競争より共同の、強者より弱者のスローライフ スローライフ22
長かった連載も、いよいよ一区切りする。いつか再論するだろうが。
スローライフは、中高年齢者だけのことではなく、若い人たちにとっても必要であり重要だ。また、スローライフする余裕がある人だけの話ではなく、むしろ余裕がない人と思っている人にこそ必要なものだ、と私は考えている。その理由に関わって書こう。
このところ書いているように、私のスローライフは、孤立とか孤高とかではなく、他者との依存共同関係のなかで育まれ保たれていくものだ。だから、当然、外に開かれるし、外にある多様なことを排除したり拒否したりするのではなく、受け止めようとする。スローライフのなかで、瞑想のようなことを大切にする人も多い。宗教家などにそうした人が多い。だが、瞑想などは自然や人々から切れて行うものではなく、自然と人々とより豊かにつながるために行うものにしたいと私は考える。
こうしたことは別の視点から見ると、弱者の生き方である。弱いからこそ自然や人々とつながるのだ。強者は、競争・勝負の世界に生きて、自然や他者に勝つことにこだわる。自然や人々との間に生まれる関係も、対抗・勝負と見なそうとする。強ければ勝利し生き残って、豊かな生活を送れると思い込んでいる。弱者が、強者と出会うと、そんなに勝ちたければ、どうぞお勝ち下さい、と譲ったりする。それがスローライフなのだ。相手を打倒して勝って何になるというのか。
勝ったつもりの強者が実は孤立を深めることが多い。強者であることが、権力・権威をふるまっているだけのことが結構ある。強者である人の周りに人が集まるのは、権力・権威を持っている時だけだ。その人柄を慕って集まっているわけではない。組織・地位を失った人が、それを失った時に、そのことを痛いほど知らされることがある。定年退職した、かつての勝者にもそうした悲哀を味わう人がいそうだ。
スローライフは勝って手に入れるものではない。幼稚園保育園の「かけっこ」の時、もし人より先になってしまったら、後ろの子どもを待って、手をつないでゴールインするようなものだ。
金持ち型のスローライフは、競争に勝利して、カネをもうけて、他者を排除し他者と切断して、カネづくのスローライフを味わおうとするものだ。対照的に、弱者というか、普通の人のスローライフは、人々とつながりを広め深めながら、保たれていく。
こうしたありようをもつ「ゆとり」を、競争や勝負が激しい風潮の中、持ちづらくなっているからこそ、余計にこうしたスローライフを求めていきたいものだ。
写真は本文とは関係なく、當間学童クラブの子どもたちのボール遊び風景
スローライフは、中高年齢者だけのことではなく、若い人たちにとっても必要であり重要だ。また、スローライフする余裕がある人だけの話ではなく、むしろ余裕がない人と思っている人にこそ必要なものだ、と私は考えている。その理由に関わって書こう。
このところ書いているように、私のスローライフは、孤立とか孤高とかではなく、他者との依存共同関係のなかで育まれ保たれていくものだ。だから、当然、外に開かれるし、外にある多様なことを排除したり拒否したりするのではなく、受け止めようとする。スローライフのなかで、瞑想のようなことを大切にする人も多い。宗教家などにそうした人が多い。だが、瞑想などは自然や人々から切れて行うものではなく、自然と人々とより豊かにつながるために行うものにしたいと私は考える。
こうしたことは別の視点から見ると、弱者の生き方である。弱いからこそ自然や人々とつながるのだ。強者は、競争・勝負の世界に生きて、自然や他者に勝つことにこだわる。自然や人々との間に生まれる関係も、対抗・勝負と見なそうとする。強ければ勝利し生き残って、豊かな生活を送れると思い込んでいる。弱者が、強者と出会うと、そんなに勝ちたければ、どうぞお勝ち下さい、と譲ったりする。それがスローライフなのだ。相手を打倒して勝って何になるというのか。
勝ったつもりの強者が実は孤立を深めることが多い。強者であることが、権力・権威をふるまっているだけのことが結構ある。強者である人の周りに人が集まるのは、権力・権威を持っている時だけだ。その人柄を慕って集まっているわけではない。組織・地位を失った人が、それを失った時に、そのことを痛いほど知らされることがある。定年退職した、かつての勝者にもそうした悲哀を味わう人がいそうだ。
スローライフは勝って手に入れるものではない。幼稚園保育園の「かけっこ」の時、もし人より先になってしまったら、後ろの子どもを待って、手をつないでゴールインするようなものだ。
金持ち型のスローライフは、競争に勝利して、カネをもうけて、他者を排除し他者と切断して、カネづくのスローライフを味わおうとするものだ。対照的に、弱者というか、普通の人のスローライフは、人々とつながりを広め深めながら、保たれていく。
こうしたありようをもつ「ゆとり」を、競争や勝負が激しい風潮の中、持ちづらくなっているからこそ、余計にこうしたスローライフを求めていきたいものだ。
写真は本文とは関係なく、當間学童クラブの子どもたちのボール遊び風景
Posted by 浅野誠 at 11:28│Comments(0)
│生き方・人生