2013年02月08日
東京でのIT関連職を辞めて帰沖し、医療関係職を目指す弦司 若者の試行錯誤物語13
弦司は、大学の情報系学科に属していた。当初、新設されてまもない「情報」科を担当する高校教員を希望していたが、採用枠が大変限られているため、首都圏のIT関連会社に就職し、ソフト開発業務に従事した。
業務は、かなり専門的なものでやりがいがあるが、納期が厳しく期限が迫ると12時過ぎの帰宅―早朝出勤、ないしは泊まり込みが連続することも珍しくなかった。3年目に入るころに担当した仕事でちょっとしたミスをしたことを上司に叱責された事が、一つのきっかけになり、鬱状態になった。職場近くのクリニックで、休養が必要だといわれたが、職場状況のなかでは、事態の改善とか休職とかを言いだせる条件はなかった。
ある日、起床することもできずに、無断欠勤してアパートに閉じこもった。携帯などでの連絡も無視して寝ていた所、同僚が訪問してきた。同僚は上司の勤務継続意思の有無を問いただす言葉を伝えるだけだった。この日までの業務成績の低下をみて、「見放されている」ことを弦司は感じた。
自宅に電話して、しばらく会社を休んで自宅で過ごすことを親に伝えた。会社には、退職手続きを取った。手元には、600万円ほどの預金が残っていた。
帰沖してしばらくボケーっとした生活をしていた。時々、同級生と会ったりして、沖縄でのIT業界の様子を聴いたりした。弦司のように、首都圏のIT関連で働いていて、数年で帰沖したものが何人かいることも聞いた。親も、弦司の様子が「普通ではない」ことに気づき、休んでいることにしばらく何も言わなかった。
半年ぐらいして、IT関連で起業した知人の業務を週20時間程度のアルバイトで手伝ったりした。しかし、そのなかでもIT関連業務への熱が冷めている自分に気付いていた。ハローワークにも行ったりしたが、求人はあるが、かつての会社の業務と似たりよったりで、腰が引けた。高校の「情報」教員になっている先輩の話も聞いた。先輩も同様に、首都圏のIT関連会社で働いていたのをやめた経験を持っている。弦司は、教職への再挑戦を考えないでもなかったが、採用がゼロに近い状態だったので、高倍率をくぐりぬけて頑張るほどの気力はなかった。
精神的に落ち込んだ経験しただけに、たまたま目にした、そうした人をサポートする職業に直結する専門学校の案内が気になった。IT関連業務とは異なって、人間相手であることにもひかれたのだ。そうした仕事には、カウンセラーとかソーシャルワーカーのような仕事と、検査技師とか理学療法士などの医療専門職とかがあった。二つほど専門学校のオープンキャンパスにも出かけた。医療系専門学校は300~500万円という授業料が必要だが、預金でなんとかなることは好都合だった。
こうして、28歳の春、弦司はある医療系専門学校に入学した。入学してみると、高校新卒生が多いのだが、弦司のように職場体験をもつ人も結構いた。なかには40代の人さえいた。その多様な年齢集団が、弦司に心地よさを与えてくれた。
学業は、専門職養成だけあってなかなか厳しく、卒業時点での国家試験合格が目標となっていた。上級生には、退学留年など途中挫折の例も多そうだった。それでも、弦司は比較的近い年齢の5人の仲間ができて、励ましあい慰め合う関係ができたのを心強く感じた。
医療知識の習得は、IT学習と似て、モノコト相手であり、これまでの自分の学習スタイルに合っていることを感じつつも、ヒト相手の学習が少ないことに物足りなさを感じた。そのなかで、患者への対応など人間関係を扱う授業には興味が持てた。また、1年後期からの施設訪問、2年からの短期実習などは、自分の将来を考えるうえで刺激になった。
そんな中で、医療施設のなかでは、できるだけ患者をモノコトではなくヒトとして扱うところで働きたいと思うようになっていた。
(この話も、いつか続論を書きたい)
写真は本文に関係なく、洋蘭博覧会で撮影
業務は、かなり専門的なものでやりがいがあるが、納期が厳しく期限が迫ると12時過ぎの帰宅―早朝出勤、ないしは泊まり込みが連続することも珍しくなかった。3年目に入るころに担当した仕事でちょっとしたミスをしたことを上司に叱責された事が、一つのきっかけになり、鬱状態になった。職場近くのクリニックで、休養が必要だといわれたが、職場状況のなかでは、事態の改善とか休職とかを言いだせる条件はなかった。
ある日、起床することもできずに、無断欠勤してアパートに閉じこもった。携帯などでの連絡も無視して寝ていた所、同僚が訪問してきた。同僚は上司の勤務継続意思の有無を問いただす言葉を伝えるだけだった。この日までの業務成績の低下をみて、「見放されている」ことを弦司は感じた。
自宅に電話して、しばらく会社を休んで自宅で過ごすことを親に伝えた。会社には、退職手続きを取った。手元には、600万円ほどの預金が残っていた。
帰沖してしばらくボケーっとした生活をしていた。時々、同級生と会ったりして、沖縄でのIT業界の様子を聴いたりした。弦司のように、首都圏のIT関連で働いていて、数年で帰沖したものが何人かいることも聞いた。親も、弦司の様子が「普通ではない」ことに気づき、休んでいることにしばらく何も言わなかった。
半年ぐらいして、IT関連で起業した知人の業務を週20時間程度のアルバイトで手伝ったりした。しかし、そのなかでもIT関連業務への熱が冷めている自分に気付いていた。ハローワークにも行ったりしたが、求人はあるが、かつての会社の業務と似たりよったりで、腰が引けた。高校の「情報」教員になっている先輩の話も聞いた。先輩も同様に、首都圏のIT関連会社で働いていたのをやめた経験を持っている。弦司は、教職への再挑戦を考えないでもなかったが、採用がゼロに近い状態だったので、高倍率をくぐりぬけて頑張るほどの気力はなかった。
精神的に落ち込んだ経験しただけに、たまたま目にした、そうした人をサポートする職業に直結する専門学校の案内が気になった。IT関連業務とは異なって、人間相手であることにもひかれたのだ。そうした仕事には、カウンセラーとかソーシャルワーカーのような仕事と、検査技師とか理学療法士などの医療専門職とかがあった。二つほど専門学校のオープンキャンパスにも出かけた。医療系専門学校は300~500万円という授業料が必要だが、預金でなんとかなることは好都合だった。
こうして、28歳の春、弦司はある医療系専門学校に入学した。入学してみると、高校新卒生が多いのだが、弦司のように職場体験をもつ人も結構いた。なかには40代の人さえいた。その多様な年齢集団が、弦司に心地よさを与えてくれた。
学業は、専門職養成だけあってなかなか厳しく、卒業時点での国家試験合格が目標となっていた。上級生には、退学留年など途中挫折の例も多そうだった。それでも、弦司は比較的近い年齢の5人の仲間ができて、励ましあい慰め合う関係ができたのを心強く感じた。
医療知識の習得は、IT学習と似て、モノコト相手であり、これまでの自分の学習スタイルに合っていることを感じつつも、ヒト相手の学習が少ないことに物足りなさを感じた。そのなかで、患者への対応など人間関係を扱う授業には興味が持てた。また、1年後期からの施設訪問、2年からの短期実習などは、自分の将来を考えるうえで刺激になった。
そんな中で、医療施設のなかでは、できるだけ患者をモノコトではなくヒトとして扱うところで働きたいと思うようになっていた。
(この話も、いつか続論を書きたい)
写真は本文に関係なく、洋蘭博覧会で撮影
Posted by 浅野誠 at 06:48│Comments(0)
│生き方・人生