2013年02月10日
体罰行使は、指導の未熟さのあらわれ 体罰問題連載1
体罰問題が大きな話題になっている。何回かに分けて書いていこう。
私が沖縄で仕事をし始めた1970年代前半、各地の学校、とくに中学校を訪問すると、職員室前廊下で正座している生徒に出会うことがしばしばで、大変驚いた。教師の中では、それはまずいことどころか、違法なことであるという意識は薄かった。またしかし、保護者の意識としても、さらには生徒自身の意識としても、生徒本人が悪いからやむをえないという受けとめが多いだけでなく、「愛の鞭」であるという考え、さらには生徒が騒いだりするのは、教師が体罰を含む指導力がないからだ、という捉え方さえ広く見られた。
こんな状況が広く見られる中で、真正面から体罰否定論を主張しても、「東京から来た若造がいうことで現実的な考えではない」と一蹴される状況だった。そこで、私は角度を変えて、次のように主張した。
体罰というのは、指導力が未熟で指導方法をよく知らない教師が行うもので、指導方法をよく学び、あるいは指導方法を創造することで、指導力を高めて、体罰を使うようなレベルから脱け出そうではないか。
私のこの提起を含めて、新たな指導方法の模索の進展のなかで、体罰を使うことは恥ずかしいことで、仲間の教師たちとともに指導方法を学び創造していこうという方向に姿勢を変えた教師がたくさん生まれた。生徒を大切にすると言うでけでなく、生徒自身が自主的主体的に課題を追求するような指導方法を、多くの教師が獲得し体罰から「卒業」していったのが、私の周りの教師たちだった。
そんな教師たちは、1980年代に入ると、「実は私も、体罰をしていたが、浅野さんなどの声掛けのなかで、指導方法のあり方について学び創造し、体罰はしなくなったなあ」という発言をし、周りの教師たちにもそういう働きかけをしていくようになった。
これらの議論に対して、体罰は教育方法に値しないから、教育方法というべきではない、という反論が出そうだ。しかし、戦前の日本軍のように、体罰を指導方法にするところがあったのも確かだ。体罰などの軍隊経験が、学校教育にも広まったといえそうだし、それは戦後もかなり長期にわたって残っただろう。
体罰が教育方法であると言っても、民主主義的な教育方法ではない。民主主義を原理に据えている戦後日本の教育に在っては、体罰は教育方法として使用してはならないことは基本的前提だろう。とはいえ、体罰禁止は、戦後に始まった事ではない。戦前日本でも体罰は禁止されていたから、民主主義になる以前から、教育方法として否定されてきた歴史は、タテマエとしては長い。
では、100年以上にわたって禁止されてきた体罰が、なぜ今なお広く使われているか。
それはまずは『安易』に使えるからだといえよう。指導者として自己を成長させる営みをしない者でも、安易に使えるものだからだ。
(続く)
写真は本文に関係なく、洋蘭博覧会で撮影
私が沖縄で仕事をし始めた1970年代前半、各地の学校、とくに中学校を訪問すると、職員室前廊下で正座している生徒に出会うことがしばしばで、大変驚いた。教師の中では、それはまずいことどころか、違法なことであるという意識は薄かった。またしかし、保護者の意識としても、さらには生徒自身の意識としても、生徒本人が悪いからやむをえないという受けとめが多いだけでなく、「愛の鞭」であるという考え、さらには生徒が騒いだりするのは、教師が体罰を含む指導力がないからだ、という捉え方さえ広く見られた。
こんな状況が広く見られる中で、真正面から体罰否定論を主張しても、「東京から来た若造がいうことで現実的な考えではない」と一蹴される状況だった。そこで、私は角度を変えて、次のように主張した。
体罰というのは、指導力が未熟で指導方法をよく知らない教師が行うもので、指導方法をよく学び、あるいは指導方法を創造することで、指導力を高めて、体罰を使うようなレベルから脱け出そうではないか。
私のこの提起を含めて、新たな指導方法の模索の進展のなかで、体罰を使うことは恥ずかしいことで、仲間の教師たちとともに指導方法を学び創造していこうという方向に姿勢を変えた教師がたくさん生まれた。生徒を大切にすると言うでけでなく、生徒自身が自主的主体的に課題を追求するような指導方法を、多くの教師が獲得し体罰から「卒業」していったのが、私の周りの教師たちだった。
そんな教師たちは、1980年代に入ると、「実は私も、体罰をしていたが、浅野さんなどの声掛けのなかで、指導方法のあり方について学び創造し、体罰はしなくなったなあ」という発言をし、周りの教師たちにもそういう働きかけをしていくようになった。
これらの議論に対して、体罰は教育方法に値しないから、教育方法というべきではない、という反論が出そうだ。しかし、戦前の日本軍のように、体罰を指導方法にするところがあったのも確かだ。体罰などの軍隊経験が、学校教育にも広まったといえそうだし、それは戦後もかなり長期にわたって残っただろう。
体罰が教育方法であると言っても、民主主義的な教育方法ではない。民主主義を原理に据えている戦後日本の教育に在っては、体罰は教育方法として使用してはならないことは基本的前提だろう。とはいえ、体罰禁止は、戦後に始まった事ではない。戦前日本でも体罰は禁止されていたから、民主主義になる以前から、教育方法として否定されてきた歴史は、タテマエとしては長い。
では、100年以上にわたって禁止されてきた体罰が、なぜ今なお広く使われているか。
それはまずは『安易』に使えるからだといえよう。指導者として自己を成長させる営みをしない者でも、安易に使えるものだからだ。
(続く)
写真は本文に関係なく、洋蘭博覧会で撮影
この記事へのコメント
>体罰というのは、指導力が未熟で指導方法をよく知らない教師が行うもの
全く、同感します。
私も指導者のはしくれですが、体罰が必要と感じたことはありません。
それでは、指導が甘いのかというと、自分で言うのはなんですがそうではありません。
率直に言って、体罰を指導方法の一つと考える人は、頭が悪いと思っています。
でなければ、よほど気が短いか、ストレス発散をやっているのではと思います。
全く、同感します。
私も指導者のはしくれですが、体罰が必要と感じたことはありません。
それでは、指導が甘いのかというと、自分で言うのはなんですがそうではありません。
率直に言って、体罰を指導方法の一つと考える人は、頭が悪いと思っています。
でなければ、よほど気が短いか、ストレス発散をやっているのではと思います。
Posted by dolce at 2013年02月11日 00:02
dokceさん、共感的コメントを二つもありがとうございます。
これらのテーマについては、まだしばらく書き続けますので、よろしくお願いします。
これらのテーマについては、まだしばらく書き続けますので、よろしくお願いします。
Posted by 浅野誠 at 2013年02月11日 08:21