2013年02月12日
管理主義によって排除されるなかで、逆に成長する華麗の模索1 若者の試行錯誤物語14
華麗は、農村地区といっていい中学から、校則が厳しいことで評判で、都市近郊にある県立高校普通科に入学した。自宅から近いこともあるし、同じ中学からの同級生も多いこともあり、ごくありきたりの選択でもあった。この高校は1980年代に新設された学校で、当時の新設校の多くは生徒を厳しく躾けることで、学校の評判を確保しようとしたのだが、20年たってもその名残があった。
小中学校でも家庭でも、伸び伸びとゆったりと育った華麗は、そんな高校に馴染むのに少しは心配したが、その後の思わぬ展開は、本人も親も想像すらできるものではなかった。
最初の「事件」は、遅刻から始まった。4月そうそうの話。通学バスが遅れたために遅刻した時、生徒指導室で注意を受け、「反省書」を書く校則であるが、『バスが遅れたから仕方がないのではないか』と担当教員に話したら、「口答えをした」というので、「反省書」をさらにもう一枚書くことになった。
5月になると、服装検査があり、スカート丈が規則違反だと注意を受けた。他の生徒も同じようなものであったが、遅刻事件のことで目をつけられていた華麗がまずは『摘発』された形となった。親も呼び出され、謹慎処分となった。その後も、似たようなことで、処分を2度受け、6月には、『自主退学』を勧告されるまでに至った。
話を聞いた、母の妹である叔母も驚いていた。華麗自身も、この学校に通い続ける気力が萎えていた。
隣の県の大都市に住んで、自営業を営む叔母が、自分の家から私立高校に通わせる申し出をしてくれた。華麗と親はそれを「渡りに船」と乗った。といっても、通える私立高校普通科は、空き定員がなく、商業科に入ることになった。形は、転校ということになった。
ほとんどが女子生徒で占められた商業科で、勉強漬けというわけではなく、社会の様々なことを学ぶことが興味深かった。叔母の自営業を時々手伝ったりすることもあって、商業科目には関心がもてた。
華麗が好きな科目は英語だった。中学の時の外国人教師が、ゲーム感覚の楽しい授業をしたし、いくつかの国の事情の話が面白かった。日本とは別の発想の世界があることに興味をもった。そんな刺激で、英語学習をよくしたし、ラジオ英会話などもよく聞いていた。
高校でも、英語成績は図抜けてよく、スピーチコンテストにも参加し、私立高校の大会に学校代表で優秀な成績を取ったこともあった。
こうして、高校生活の思わぬスタートが転換し、華麗としてはかなり充実したものとなった。
叔母の家では、家事や家業の手伝いを、短時間ではあったがした。そこで、自営業で積極的にテキパキと働く叔母の姿を見ることの刺激は大きかった。華麗は、都市の大人社会での人間関係のなかで積極的に動くありようを学んだともいえる。それまでののんびりとした動きが少々早いテンポになるとともに、今まで以上に、自分の考え・意思を持ち、それらを押し出していくありようを身に付けた。
高校入学以来の体験、とくにそれを乗り切ってきたことは、のちのちの華麗にとって大きな自信となっていくのだった。
写真は本文に関係なく、洋蘭博覧会で撮影
小中学校でも家庭でも、伸び伸びとゆったりと育った華麗は、そんな高校に馴染むのに少しは心配したが、その後の思わぬ展開は、本人も親も想像すらできるものではなかった。
最初の「事件」は、遅刻から始まった。4月そうそうの話。通学バスが遅れたために遅刻した時、生徒指導室で注意を受け、「反省書」を書く校則であるが、『バスが遅れたから仕方がないのではないか』と担当教員に話したら、「口答えをした」というので、「反省書」をさらにもう一枚書くことになった。
5月になると、服装検査があり、スカート丈が規則違反だと注意を受けた。他の生徒も同じようなものであったが、遅刻事件のことで目をつけられていた華麗がまずは『摘発』された形となった。親も呼び出され、謹慎処分となった。その後も、似たようなことで、処分を2度受け、6月には、『自主退学』を勧告されるまでに至った。
話を聞いた、母の妹である叔母も驚いていた。華麗自身も、この学校に通い続ける気力が萎えていた。
隣の県の大都市に住んで、自営業を営む叔母が、自分の家から私立高校に通わせる申し出をしてくれた。華麗と親はそれを「渡りに船」と乗った。といっても、通える私立高校普通科は、空き定員がなく、商業科に入ることになった。形は、転校ということになった。
ほとんどが女子生徒で占められた商業科で、勉強漬けというわけではなく、社会の様々なことを学ぶことが興味深かった。叔母の自営業を時々手伝ったりすることもあって、商業科目には関心がもてた。
華麗が好きな科目は英語だった。中学の時の外国人教師が、ゲーム感覚の楽しい授業をしたし、いくつかの国の事情の話が面白かった。日本とは別の発想の世界があることに興味をもった。そんな刺激で、英語学習をよくしたし、ラジオ英会話などもよく聞いていた。
高校でも、英語成績は図抜けてよく、スピーチコンテストにも参加し、私立高校の大会に学校代表で優秀な成績を取ったこともあった。
こうして、高校生活の思わぬスタートが転換し、華麗としてはかなり充実したものとなった。
叔母の家では、家事や家業の手伝いを、短時間ではあったがした。そこで、自営業で積極的にテキパキと働く叔母の姿を見ることの刺激は大きかった。華麗は、都市の大人社会での人間関係のなかで積極的に動くありようを学んだともいえる。それまでののんびりとした動きが少々早いテンポになるとともに、今まで以上に、自分の考え・意思を持ち、それらを押し出していくありようを身に付けた。
高校入学以来の体験、とくにそれを乗り切ってきたことは、のちのちの華麗にとって大きな自信となっていくのだった。
写真は本文に関係なく、洋蘭博覧会で撮影
Posted by 浅野誠 at 06:40│Comments(0)
│生き方・人生