2013年03月24日
わかりやすくアドバイスに満ちた青木省三「ぼくらの中の発達障害」筑摩書房2012年
いわゆる「自閉症」(「広汎性発達障害」(自閉症スペクトラム障害))を中心に、発達障害についてわかりやすく書かれた本だ。「発達障害」の捉え方をめぐって私が注目した個所をいくつか紹介しよう。
「「発達障害は治るのですか?」と尋ねられることがある。だが発達障害に「治る」という言葉はふさわしくないように思う。
第一に、「治る」というのは主に病気に対して使う言葉である。この本を読んでもらったら分かると思うが、僕は発達障害を病気とは考えていない。人の一つの在り方、生き方に近いものと思っている。もちろん、発達障害を持つ人が、二次的に統合失調症などの精神障害を持つようになっている場合には、その二次的な精神障害については「治る」という言葉を使うし、「治ると思う」「治るように頑張りたい」と言うことが多い。
第二に、発達障害は発達が「障害」されている、即ち、発達しないものだと考えている人がいるが、これは誤っている。発達障害であろうとなかろうと、人は誰でも発達していく。そのスピードと道筋は人によって異なるが、発達障害を持つ人は、周囲の人や環境の応援を得て、その人なりのスピードと道筋をたどり発達していくのである。だから、発達障害は「治す」ものではなくて、その人なりのスピードと道筋で発達していくのを応援するものである、と考えるとよい。
第三に、発達する方向は、定型発達の人の方向に向かって、というものではない。人には多様な在り方、生き方があり、その入らしいゴールに向かって発達していくように、応援することが求められているのだと、僕は思っている。」P52-3
「人に対して内面を隠すという「自閉」は定型発達と呼ばれる人の中にあるものであり、逆に広汎性発達障害で「自閉」を持つと言われる人の中にこそ、内面を隠さず人と繋がり情報を伝達する可能性があると、僕には思えてならない。」P74
「言葉で気持ちや考えをうまく表現できない時、相手の言葉が充分に理解できない時、誰もが広汎性発達障害的となると、僕は思っている。環境次第で、人は誰でも広汎性発達障害的となり得るのではないか?」P87
「昨今、若者のコミュニケーション能力不足が言われているが、他の世代に比ベコミュニケーション能力が低下しているのではないと、僕は思う。これまではコミュニケーション能力は、それほどは求められてはいなかった。またそれほど持たなくても、揺るぎのない強さの共通理解を持つことができていたのだ。コミュニケーション能力が乏しくなったのではなく、時代の中でコミュニケーション能力がより求められるようになった。そのため、広汎性発達障害の傾向を持つ人をはじめとして、言葉でのコミュニケーションが苦手な人達が、社会の中で生きづらくなり、破綻をきたしやすくなったのではないかと、僕は推察している。」P90-1
私自身の体験からいっても、なるほどと思える点が多い。「定型発達」の人を含めて同様のことを体験することがごく普通なのだ。だから、タイトルが「ぼくらの中の発達障害」となっているようだ。
これらの障害の説明だけでなく、対応について書かれているアドバイスが、大変有用だ。それは、「第6章 発達障害を持つ人たちへのアドバイス」「第7章 周囲の人たちへのアドバイス」だ。
その中の一節を紹介しよう。
「話す時に心がけたいことをいくつかあげていこう。
①あっさり、はっきり、簡潔に伝える。
これが基本である。
②くどくならない。問い詰めない。
③早口で、たたみかけるように話さない。
④声が大きすぎないように、強すぎないように気をつける。
②③④はそれだけで、「怒られている」「責められている」という感覚を強めることがある。
⑤一度の情報量を多くしない。
⑥複数の感情を混じらせない。例えば、褒める時にはストレートに褒める。
⑦曖昧な多義的な表現や態度をとらない。
⑤⑥⑦に気をつけないと、しばしば混乱を招き、時には猜疑的になってしまうことがある。
又、話を聞く時には、次のようなことを心がけたい。
①相手の話すペースに合わせる。
基本は、ゆっくりとしたペースである。
相手の言葉と、自分の言葉との間に、少し「間」ができるくらいがよい。
②相手が話すのを、急かさない。
③相手の話の終わりまで、きちんと聞く。
④受け止めているという、相槌を打つ。」P187-8
これを読みながら、大学授業での私の話し方聞き方を思い出した。若いころの私は、ここに書かれていることの反対をしていたようだが、近年の話し方聞き方は、こんな風になっているようだ。
そのためか、おとなしい無口な印象の学生や人前での緊張が激しい学生たちも、授業で彼らなりに話をすることが普通になっている。ゼミだけでなく、50~80人ぐらいの授業でも、2,3回目の授業になると、全員が発言するようになる。20~10年ぐらい前には、こうした話し方聞き方を意識的に追求してきたが、最近は「自然体」でそうなっている。「肩の力が抜けてきた」のか、「肩に力が入るエネルギー過剰状態がなくなってきた」せいかは、まだよくはわからない。
写真は本文に関係なく、庭のガザニアとナデシコの花
「「発達障害は治るのですか?」と尋ねられることがある。だが発達障害に「治る」という言葉はふさわしくないように思う。
第一に、「治る」というのは主に病気に対して使う言葉である。この本を読んでもらったら分かると思うが、僕は発達障害を病気とは考えていない。人の一つの在り方、生き方に近いものと思っている。もちろん、発達障害を持つ人が、二次的に統合失調症などの精神障害を持つようになっている場合には、その二次的な精神障害については「治る」という言葉を使うし、「治ると思う」「治るように頑張りたい」と言うことが多い。
第二に、発達障害は発達が「障害」されている、即ち、発達しないものだと考えている人がいるが、これは誤っている。発達障害であろうとなかろうと、人は誰でも発達していく。そのスピードと道筋は人によって異なるが、発達障害を持つ人は、周囲の人や環境の応援を得て、その人なりのスピードと道筋をたどり発達していくのである。だから、発達障害は「治す」ものではなくて、その人なりのスピードと道筋で発達していくのを応援するものである、と考えるとよい。
第三に、発達する方向は、定型発達の人の方向に向かって、というものではない。人には多様な在り方、生き方があり、その入らしいゴールに向かって発達していくように、応援することが求められているのだと、僕は思っている。」P52-3
「人に対して内面を隠すという「自閉」は定型発達と呼ばれる人の中にあるものであり、逆に広汎性発達障害で「自閉」を持つと言われる人の中にこそ、内面を隠さず人と繋がり情報を伝達する可能性があると、僕には思えてならない。」P74
「言葉で気持ちや考えをうまく表現できない時、相手の言葉が充分に理解できない時、誰もが広汎性発達障害的となると、僕は思っている。環境次第で、人は誰でも広汎性発達障害的となり得るのではないか?」P87
「昨今、若者のコミュニケーション能力不足が言われているが、他の世代に比ベコミュニケーション能力が低下しているのではないと、僕は思う。これまではコミュニケーション能力は、それほどは求められてはいなかった。またそれほど持たなくても、揺るぎのない強さの共通理解を持つことができていたのだ。コミュニケーション能力が乏しくなったのではなく、時代の中でコミュニケーション能力がより求められるようになった。そのため、広汎性発達障害の傾向を持つ人をはじめとして、言葉でのコミュニケーションが苦手な人達が、社会の中で生きづらくなり、破綻をきたしやすくなったのではないかと、僕は推察している。」P90-1
私自身の体験からいっても、なるほどと思える点が多い。「定型発達」の人を含めて同様のことを体験することがごく普通なのだ。だから、タイトルが「ぼくらの中の発達障害」となっているようだ。
これらの障害の説明だけでなく、対応について書かれているアドバイスが、大変有用だ。それは、「第6章 発達障害を持つ人たちへのアドバイス」「第7章 周囲の人たちへのアドバイス」だ。
その中の一節を紹介しよう。
「話す時に心がけたいことをいくつかあげていこう。
①あっさり、はっきり、簡潔に伝える。
これが基本である。
②くどくならない。問い詰めない。
③早口で、たたみかけるように話さない。
④声が大きすぎないように、強すぎないように気をつける。
②③④はそれだけで、「怒られている」「責められている」という感覚を強めることがある。
⑤一度の情報量を多くしない。
⑥複数の感情を混じらせない。例えば、褒める時にはストレートに褒める。
⑦曖昧な多義的な表現や態度をとらない。
⑤⑥⑦に気をつけないと、しばしば混乱を招き、時には猜疑的になってしまうことがある。
又、話を聞く時には、次のようなことを心がけたい。
①相手の話すペースに合わせる。
基本は、ゆっくりとしたペースである。
相手の言葉と、自分の言葉との間に、少し「間」ができるくらいがよい。
②相手が話すのを、急かさない。
③相手の話の終わりまで、きちんと聞く。
④受け止めているという、相槌を打つ。」P187-8
これを読みながら、大学授業での私の話し方聞き方を思い出した。若いころの私は、ここに書かれていることの反対をしていたようだが、近年の話し方聞き方は、こんな風になっているようだ。
そのためか、おとなしい無口な印象の学生や人前での緊張が激しい学生たちも、授業で彼らなりに話をすることが普通になっている。ゼミだけでなく、50~80人ぐらいの授業でも、2,3回目の授業になると、全員が発言するようになる。20~10年ぐらい前には、こうした話し方聞き方を意識的に追求してきたが、最近は「自然体」でそうなっている。「肩の力が抜けてきた」のか、「肩に力が入るエネルギー過剰状態がなくなってきた」せいかは、まだよくはわからない。
写真は本文に関係なく、庭のガザニアとナデシコの花
Posted by 浅野誠 at 11:54│Comments(0)
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