プロフィール
浅野誠
浅野誠
1972-73年沖縄大学に勤務
1973-90年琉球大学に勤務
1990-2003年中京大学に勤務
2004年より沖縄生活再開
玉城の絶景のなかで田舎暮らし
自然と人々とつながりつつ人生創造
執筆活動、講演・ワークショップを全国にて行う
沖縄県立看護大学・沖縄リハビリテーション福祉学院で非常勤講師
沖縄大学客員教授 南城市・西原町で、多様な審議会等で委員長などを務める

  最近著
  『沖縄おこし・人生おこしの教育』(アクアコーラル企画)
『<生き方>を創る教育』(大月書店)
『ワークショップガイド』(アクアコーラル企画)
『沖縄 田舎暮らし』(アクアコーラル企画)
  『浅野誠ワークショップシリーズ』
    1.ワークショップの作り方進め方
    2.人間関係を育てる
    3.授業づくり(小中高校)
    4.授業づくり(大学)
    5.人生創造
  6.人間関係・人生創造・世界発見・共同活動創造
 
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2011年11月15日

明治期の「沖縄おこし」と公同会運動 「沖縄県史近代」を読む4

 私の最近の関心のひとつは、拙著のタイトル「沖縄おこし・人生おこしの教育」にもあるように、「沖縄おこし」の動向である。近代のスタートにあって、それはどうだったろうか。その視点から、本書を読むと、興味深い点がいくつかある。
 
 1)まず、明治前期には、沖縄県政は、明治政府の現地代理店のような役割を果たしていたが、「沖縄おこし」に力を入れていなかったことに特徴をみることができよう。こんな記述がある。
 「他府県にとって県政の優先課題は、殖産興業の推進など近代国家の内実を整えるよう、国家の要請を遂行するものであった。ところが、旧慣期の沖縄県は県治の方針に独特なものがあった。」P183
つまり旧慣温存であり、他府県にみる「殖産興業の推進」の施策は展開されなかったのだ。せいぜい旧士族への「授産」として、土地開墾推進などが行われたぐらいであった。

 2)1)で述べた事態には、日清戦争後変化が起きる。そこで、奈良原知事を中心とする県庁と旧士族のなかの諸勢力と旧士族外の諸勢力などとのかかわりで、様々な動きが生まれてくる。
 たとえば、そうした動きの一つである「公同会運動」の評価をめぐって、注目したい記述が本書には見られる。その一つは、次の西里喜行論の紹介に見られる。
 「国民的同化の推進と士族層の社会的地位回復の願望から出発していたとはいえ、・・沖縄人の主体性回復をめざした自治運動へ発展する展望をも示していた」P245

 そして、公同会運動の中心の一人太田朝敷に関わって、次のように書いている。
 「尚家を世襲の知事にするのが運動の本当の“目的”ではなく運動の“象徴、方策・手段”にすぎず、新しい情勢に対して開化党を中心に沖縄「土着県民の団結」「人心の統一」を図り、その力を政府や奈良原知事ら県当局に誇示し認知させることこそが真のねらい・目的であったと考えられる。そう考えると、二度目の運動が沖縄県内の署名などに力を込めたことや新聞各紙への宣伝に比して、「請願書」提出など政府や政党・議会への直接的な働きかけがほとんどみられなかったことも理解できる。その意味では太田朝敷ら開化党にとって公同会運動は失敗ではなく、むしろ成功だったともいえよう。」P248
 そして、「奈良原県政と開化党との相互利用・癒着と警戒の微妙な緊張関係」があったと書く。
 また、「奈良原知事は、一八九三年(明治二六)に展開された宮古島島政改革・人頭税撤廃を求める請願運動や、一八九九年(明治三二)から翌年にかけて謝花昇ら「沖縄倶楽部」によって展開された衆議院議員選挙法の沖縄への適用を求める請願運動に対しては、露骨な妨害・弾圧を行った。しかし、公同会運動に関して奈良原は妨害・弾圧に類する行為は一切していない。(中略)
なぜ静観していたのか。この疑問を解くカギは奈良原と公同会の政治的・社会的関係を検討すること以外にないと思われる。
 そもそも「親日・反清」を掲げる旧支配階級の一派である開化党の機関紙『琉球新報』は、太田朝敷自身が認めるように「我が琉球新報の如きも奈良原さんの勧諭と尽力に依り」、一九九三年(明治二六)に尚順・太田朝敷らによって創刊された。」P248~9

 以上興味深い指摘である。(次回に続く)


明治期の「沖縄おこし」と公同会運動 「沖縄県史近代」を読む4


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この記事へのコメント
大変勉強になります。

この時期
沖縄の本質を知ることは
とても重要です♡
Posted by First ☆ Star 屋宜朋子First ☆ Star 屋宜朋子 at 2011年11月15日 07:55
 
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