2011年11月15日
明治期の「沖縄おこし」と公同会運動 「沖縄県史近代」を読む4
私の最近の関心のひとつは、拙著のタイトル「沖縄おこし・人生おこしの教育」にもあるように、「沖縄おこし」の動向である。近代のスタートにあって、それはどうだったろうか。その視点から、本書を読むと、興味深い点がいくつかある。
1)まず、明治前期には、沖縄県政は、明治政府の現地代理店のような役割を果たしていたが、「沖縄おこし」に力を入れていなかったことに特徴をみることができよう。こんな記述がある。
「他府県にとって県政の優先課題は、殖産興業の推進など近代国家の内実を整えるよう、国家の要請を遂行するものであった。ところが、旧慣期の沖縄県は県治の方針に独特なものがあった。」P183
つまり旧慣温存であり、他府県にみる「殖産興業の推進」の施策は展開されなかったのだ。せいぜい旧士族への「授産」として、土地開墾推進などが行われたぐらいであった。
2)1)で述べた事態には、日清戦争後変化が起きる。そこで、奈良原知事を中心とする県庁と旧士族のなかの諸勢力と旧士族外の諸勢力などとのかかわりで、様々な動きが生まれてくる。
たとえば、そうした動きの一つである「公同会運動」の評価をめぐって、注目したい記述が本書には見られる。その一つは、次の西里喜行論の紹介に見られる。
「国民的同化の推進と士族層の社会的地位回復の願望から出発していたとはいえ、・・沖縄人の主体性回復をめざした自治運動へ発展する展望をも示していた」P245
そして、公同会運動の中心の一人太田朝敷に関わって、次のように書いている。
「尚家を世襲の知事にするのが運動の本当の“目的”ではなく運動の“象徴、方策・手段”にすぎず、新しい情勢に対して開化党を中心に沖縄「土着県民の団結」「人心の統一」を図り、その力を政府や奈良原知事ら県当局に誇示し認知させることこそが真のねらい・目的であったと考えられる。そう考えると、二度目の運動が沖縄県内の署名などに力を込めたことや新聞各紙への宣伝に比して、「請願書」提出など政府や政党・議会への直接的な働きかけがほとんどみられなかったことも理解できる。その意味では太田朝敷ら開化党にとって公同会運動は失敗ではなく、むしろ成功だったともいえよう。」P248
そして、「奈良原県政と開化党との相互利用・癒着と警戒の微妙な緊張関係」があったと書く。
また、「奈良原知事は、一八九三年(明治二六)に展開された宮古島島政改革・人頭税撤廃を求める請願運動や、一八九九年(明治三二)から翌年にかけて謝花昇ら「沖縄倶楽部」によって展開された衆議院議員選挙法の沖縄への適用を求める請願運動に対しては、露骨な妨害・弾圧を行った。しかし、公同会運動に関して奈良原は妨害・弾圧に類する行為は一切していない。(中略)
なぜ静観していたのか。この疑問を解くカギは奈良原と公同会の政治的・社会的関係を検討すること以外にないと思われる。
そもそも「親日・反清」を掲げる旧支配階級の一派である開化党の機関紙『琉球新報』は、太田朝敷自身が認めるように「我が琉球新報の如きも奈良原さんの勧諭と尽力に依り」、一九九三年(明治二六)に尚順・太田朝敷らによって創刊された。」P248~9
以上興味深い指摘である。(次回に続く)
1)まず、明治前期には、沖縄県政は、明治政府の現地代理店のような役割を果たしていたが、「沖縄おこし」に力を入れていなかったことに特徴をみることができよう。こんな記述がある。
「他府県にとって県政の優先課題は、殖産興業の推進など近代国家の内実を整えるよう、国家の要請を遂行するものであった。ところが、旧慣期の沖縄県は県治の方針に独特なものがあった。」P183
つまり旧慣温存であり、他府県にみる「殖産興業の推進」の施策は展開されなかったのだ。せいぜい旧士族への「授産」として、土地開墾推進などが行われたぐらいであった。
2)1)で述べた事態には、日清戦争後変化が起きる。そこで、奈良原知事を中心とする県庁と旧士族のなかの諸勢力と旧士族外の諸勢力などとのかかわりで、様々な動きが生まれてくる。
たとえば、そうした動きの一つである「公同会運動」の評価をめぐって、注目したい記述が本書には見られる。その一つは、次の西里喜行論の紹介に見られる。
「国民的同化の推進と士族層の社会的地位回復の願望から出発していたとはいえ、・・沖縄人の主体性回復をめざした自治運動へ発展する展望をも示していた」P245
そして、公同会運動の中心の一人太田朝敷に関わって、次のように書いている。
「尚家を世襲の知事にするのが運動の本当の“目的”ではなく運動の“象徴、方策・手段”にすぎず、新しい情勢に対して開化党を中心に沖縄「土着県民の団結」「人心の統一」を図り、その力を政府や奈良原知事ら県当局に誇示し認知させることこそが真のねらい・目的であったと考えられる。そう考えると、二度目の運動が沖縄県内の署名などに力を込めたことや新聞各紙への宣伝に比して、「請願書」提出など政府や政党・議会への直接的な働きかけがほとんどみられなかったことも理解できる。その意味では太田朝敷ら開化党にとって公同会運動は失敗ではなく、むしろ成功だったともいえよう。」P248
そして、「奈良原県政と開化党との相互利用・癒着と警戒の微妙な緊張関係」があったと書く。
また、「奈良原知事は、一八九三年(明治二六)に展開された宮古島島政改革・人頭税撤廃を求める請願運動や、一八九九年(明治三二)から翌年にかけて謝花昇ら「沖縄倶楽部」によって展開された衆議院議員選挙法の沖縄への適用を求める請願運動に対しては、露骨な妨害・弾圧を行った。しかし、公同会運動に関して奈良原は妨害・弾圧に類する行為は一切していない。(中略)
なぜ静観していたのか。この疑問を解くカギは奈良原と公同会の政治的・社会的関係を検討すること以外にないと思われる。
そもそも「親日・反清」を掲げる旧支配階級の一派である開化党の機関紙『琉球新報』は、太田朝敷自身が認めるように「我が琉球新報の如きも奈良原さんの勧諭と尽力に依り」、一九九三年(明治二六)に尚順・太田朝敷らによって創刊された。」P248~9
以上興味深い指摘である。(次回に続く)
Posted by 浅野誠 at 07:13│Comments(1)
│沖縄の歴史・民俗
この記事へのコメント
大変勉強になります。
この時期
沖縄の本質を知ることは
とても重要です♡
この時期
沖縄の本質を知ることは
とても重要です♡
Posted by First ☆ Star 屋宜朋子 at 2011年11月15日 07:55