2013年02月14日
体罰常習者の未熟さ 上下秩序組織と体罰 体罰問題2
体罰を使っていることを公言する人は今では少ない。もし、公言するとしたら、確信犯であり、「相当のワル(悪)」だろう。だから、自分は体罰をしているとは言わず、被害者の生徒や生徒の保護者からの告発から発覚することが多い。
私にも、いやな思い出がいくつかある。優秀な卒業生が実は体罰を行使していたことが、彼の卒業生から告白されたことがある。「浅野さんは、その体罰教師の先生なのだから、どんな指導をしていたのですか」と問いただされたことさえある。そうした卒業生は、わたしの前で体罰をしているとは決していわない。恥ずかしい事が分かっているからだろう。
著名なスポーツ指導者が体罰を繰り返している話も聞かされた。体罰問題特集の最近の新聞連載でも、20代30代の若いころは使っていたと告白する50代60代の人がいる。
このように体罰は学校でかなり広く残ってきたし、最近まで日常的に行われてきた運動部指導もあったようだ。
そうした体罰は、怒りの感情を抑えきれずに、思わず叩いてしまったというものとはかなり異なって、常習犯的なものが多いだろう。「怒りの感情を抑えきれずに、思わず叩いてしまった」という人は、自制できなかったことで、自分の指導の未熟さ、ないしは、人間的成長での未熟さに気付き、自己嫌悪感に悩まされるだろう。そして成長するために試行錯誤を積み重ねていくだろう。なかには、教師を辞める人もいよう。
そうしたことがなく、体罰を常習化する、あるいは体罰に頼るような指導者は、前回書いたように、指導の未熟さそのものだろうし、なお悪いことに、「ほかでもよくおこなわれていることだと開き直る」「生徒のことを思ってやったことがなぜ悪いと居座る」人さえいる。
そうした人は、「人間的成長での未熟さ」に気づくのに必要な人格的転換が必要とされるだろう。したがって、一時的な反省とか謝罪とかですむのではなく、人間的教育的成長のための大掛かりな転換が求められるだろう。
にもかかわらず、そこまでいかないで、一時的にとりつくろったり、組織内での「かばい合い」が進行したり、軽い処罰で済ませたりする。それが、体罰依存体質から抜け出せないで、体罰連鎖、体罰構造を温存することにつながる。だから、組織体質そのものを変えることをどれだけ進行させるかが問われる。
こうした体罰依存が存在しているのはなぜか考えてみよう。タテマエは別にして、体罰には、上下の服従訓練が伴いやすい。あるいは恐怖をもとに奮起させようとする動物調教に近い所が垣間見られる。
閉鎖的な上下秩序が強いところで発生しやすい。教師生徒間、先輩後輩間といった上下秩序がそうしたものであり、競争・弱肉強食雰囲気が強いところで発生しやすい。そこでの指導者は、「組織の権威」による体罰行使に陥りがちだが、当人の「上」に当たる人には、ごますり的行動を取りやすい。だが、そうした人は、組織から外れると、何もできない。
そうした組織で生じやすいのは、組織の私物化である。私物であるから、メンバーをどうしようと自分の勝手だ、というのだ。こうした体質を育てつつ体罰を展開する指導者もいる。自分では直接を手を下さないとしても、若い弟子たちに代わりにさせた相撲部屋の親方のことが思い出される。
写真は本文に関係なく、洋蘭博覧会で撮影。
私にも、いやな思い出がいくつかある。優秀な卒業生が実は体罰を行使していたことが、彼の卒業生から告白されたことがある。「浅野さんは、その体罰教師の先生なのだから、どんな指導をしていたのですか」と問いただされたことさえある。そうした卒業生は、わたしの前で体罰をしているとは決していわない。恥ずかしい事が分かっているからだろう。
著名なスポーツ指導者が体罰を繰り返している話も聞かされた。体罰問題特集の最近の新聞連載でも、20代30代の若いころは使っていたと告白する50代60代の人がいる。
このように体罰は学校でかなり広く残ってきたし、最近まで日常的に行われてきた運動部指導もあったようだ。
そうした体罰は、怒りの感情を抑えきれずに、思わず叩いてしまったというものとはかなり異なって、常習犯的なものが多いだろう。「怒りの感情を抑えきれずに、思わず叩いてしまった」という人は、自制できなかったことで、自分の指導の未熟さ、ないしは、人間的成長での未熟さに気付き、自己嫌悪感に悩まされるだろう。そして成長するために試行錯誤を積み重ねていくだろう。なかには、教師を辞める人もいよう。
そうしたことがなく、体罰を常習化する、あるいは体罰に頼るような指導者は、前回書いたように、指導の未熟さそのものだろうし、なお悪いことに、「ほかでもよくおこなわれていることだと開き直る」「生徒のことを思ってやったことがなぜ悪いと居座る」人さえいる。
そうした人は、「人間的成長での未熟さ」に気づくのに必要な人格的転換が必要とされるだろう。したがって、一時的な反省とか謝罪とかですむのではなく、人間的教育的成長のための大掛かりな転換が求められるだろう。
にもかかわらず、そこまでいかないで、一時的にとりつくろったり、組織内での「かばい合い」が進行したり、軽い処罰で済ませたりする。それが、体罰依存体質から抜け出せないで、体罰連鎖、体罰構造を温存することにつながる。だから、組織体質そのものを変えることをどれだけ進行させるかが問われる。
こうした体罰依存が存在しているのはなぜか考えてみよう。タテマエは別にして、体罰には、上下の服従訓練が伴いやすい。あるいは恐怖をもとに奮起させようとする動物調教に近い所が垣間見られる。
閉鎖的な上下秩序が強いところで発生しやすい。教師生徒間、先輩後輩間といった上下秩序がそうしたものであり、競争・弱肉強食雰囲気が強いところで発生しやすい。そこでの指導者は、「組織の権威」による体罰行使に陥りがちだが、当人の「上」に当たる人には、ごますり的行動を取りやすい。だが、そうした人は、組織から外れると、何もできない。
そうした組織で生じやすいのは、組織の私物化である。私物であるから、メンバーをどうしようと自分の勝手だ、というのだ。こうした体質を育てつつ体罰を展開する指導者もいる。自分では直接を手を下さないとしても、若い弟子たちに代わりにさせた相撲部屋の親方のことが思い出される。
写真は本文に関係なく、洋蘭博覧会で撮影。
Posted by 浅野誠 at 19:17│Comments(0)
│教育・子育て